(5)  令和元年(2019年)6月15日号 No.1254 広報あしや 芦屋市章に引き継がれる 精道村章 昭和16年(1941)に制定された芦屋市章は、精道村章がそのまま引き継がれています。大正11年(1922)、精道村は、村章を制定するためにそのデザインを懸賞(1等200円、2等50円の賞金)付きで募集し、その最優秀作品を村章として採用しました。なお、精道村章(現在の芦屋市章)のデザインは、「精道村は、山を負い海に臨む風光明媚の地にして、芦屋・打出・三条・津知の旧四か村から成り、円満、平和にして隆々として発展の勢あり、すなわち山、海、四、円平、旭を図示する」に由来します。 「日本一の村役場」と呼ばれていた 精道村役場 精道村役場は、明治22年(1889)の発足当初には精道小学校の木造校舎内におかれました。大正6年(1917)以降は仮役場として何度か移転しましたが、ようやく大正12年(1923)に現在の市役所北広場の北東部付近に新しい村役場が新築されました。新庁舎は富豪村となっていた精道村にふさわしく鉄筋コンクリート造3階建てで、当時、「日本一の村役場」と称されました。 この建物は昭和58年(1983)に解体されました。現在、縮尺75分の1の復元模型を市役所南館地下1階に展示しています。 芦屋川停留所(業平橋)に 停車中の国道電車 昭和2年(1927)、阪神国道(現在の国道2号)が開通しました。道路上には阪神電鉄国道線(国道電車)が走り、芦屋市域には「山打出」「芦屋駅前」「芦屋川」「津知」の4停留所が設置されました。なお、国道電車は、昭和49年(1974)3月に廃止されました。 市役所(旧精道村役場)前で 市制施行を祝う旗行列 昭和15年(1940)11月10日、精道村は「町」を飛び越えて芦屋市となり、現在に至ります。市制施行の際に、市名が「芦屋」となった大きな理由には、精道村民ですら精道村のことを「芦屋」と呼んでいて、阪神間でも一般的に精道村の名を知らない人が多い状況であり、精道村にある「芦屋駅」、「芦屋警察署」、「芦屋郵便局」等の公共施設の名称は、すべて「芦屋」の名が付いていることが挙げられています。 戦前の芦屋に関する情報(古写真・思い出等)を募集しています 市教育委員会では、精道村発足130年を機に、戦前の芦屋の古写真や思い出・資料など皆さんからの情報を募集しています。 ■募集内容  ①戦前の芦屋で撮影された写真(家族写真や絵はがき等を含む)を借用しての複写。  ②ご本人の記憶や思い出に残っている戦前の芦屋、または親族などから聞いた戦前の芦屋について教えてください。 ■情報提供の方法  生涯学習課まで電話で連絡ください。 問い合わせ 生涯学習課 ☎38-2115 今から81年前(昭和13年〔1938〕) 戦前からあった芦屋公園の築山 ―市民提供の写真からわかったこと― かつて、芦屋川東岸にあった松林は「芦屋遊園地」と呼ばれていました。これは、精道村が明治39年(1906)に設置を計画したもので、明治40年(1907)には早くも一部を開園し、村営の飲食店2棟や街灯25基、トイレ4カ所などが主な施設として整備されました。さらに阪神電鉄株式会社の寄附で、休息所店舗8棟、ベンチ、ブランコ4台、木馬1台などが設置されました。その背景には、明治38年(1905)の阪神電鉄の開業があり、当時、大都市の大阪や神戸に近いながらも、豊かな自然が残っていた芦屋に、人々の憩いの場として造られたようです。  その範囲は、旧国道(現在の国道2号線)以南から芦屋浜までの芦屋川東岸全域におよび、現在では芦屋公園がその名残りとなっています。  さて、【写真1】は、戦前の芦屋に関する情報として市民からご提供いただいたもので、昭和13年(1938)3月に当時の精道小学校3年3組の修了の記念に撮影されたものです。この写真で児童たちの背景に写っている築山と、現在の芦屋公園にある築山【写真2】を見比べてみると、築山に葺かれた石や橋・左奥の鎖などの形状から、同じものであることがわかります。これまで、芦屋公園に残る芦屋遊園地の痕跡としては、「芦屋遊園」や「ぬえ」の石碑をよく紹介していましたが、今回、公園の築山も芦屋遊園地の痕跡であり、少なくとも昭和13年には存在したことを確認できました。  このように、市内にはまだ戦前の痕跡が残っています。今後も、意外なところから、戦前の芦屋の名残が見つかるかもしれません。 芦屋タイムトラベル問い合わせ 生涯学習課 ☎38-2115