02-03 特 集 徳川大坂城東六甲採石場四百年 ―芦屋と大阪城の深いつながり―  芦屋市域を含む六甲山地の東部では、1620~1629(元和6~寛永6)年にかけて、大坂城の石垣を築くために膨大な数の花崗岩(通称、御影石)が採石されました。  この採石場跡は徳川大坂城東六甲採石場と呼ばれており、今年は採石開始からちょうど400年になります。これを機会に、芦屋と大阪城の深いつながりをひも解いてみたいと思います。 ※「大阪」の漢字が使われるようになったのは明治からで、それ以前は「大坂」の漢字が使われていました。現在の「大阪城」と、江戸時代以前の「大坂城」を区別して使い分けています。 問い合わせ 生涯学習課 ☎38-2115 「豊臣大坂城」と「徳川大坂城」 大阪城といえば豊臣秀吉が築いた天下の名城をイメージする方が多いと思いますが、実は、現在の大阪城は江戸幕府の2代将軍徳川秀忠と3代将軍家光が築き直したもので、秀吉の大坂城はその地下深くに埋められてしまっています。そのため、埋められた秀吉が築いた大坂城を「豊臣大坂城」、現在、地上に見える徳川秀忠・家光が築いた大坂城を「徳川大坂城」と呼び分けています。 現在の大阪城の天守閣は、1931(昭和6)年に建てられたもので、鉄筋コンクリート造です。 芦屋と西宮に広がる徳川大坂城東六甲採石 徳川大坂城東六甲採石場は、六甲山地の東部、芦屋市域と西宮市域の山地や丘陵を中心に分布しています。徳川大坂城の石垣を築く石材の数は100万個以上と言われていますが、その約半数が徳川大坂城東六甲採石場から採石されたと推定されており、大坂城の採石場としては最大です。 この採石場では、岩盤ではなく六甲山地にたくさんある花崗岩の丸い転石を割っていくことで石材を採っています。 徳川大坂城東六甲採石場は「甲山刻印群」「北山刻印群」「越木岩刻印群」(西宮市域)と「岩ヶ平刻印群」「奥山刻印群」「城山刻印群」(芦屋市域)の6つのエリアに細分されています。平成30年には、西宮市にある甲山刻印群の佐賀藩鍋島家の採石場跡が、「大坂城石垣石丁場跡 東六甲石丁場跡」という名称で国史跡に指定されています。 外様大名が動員された徳川大坂城の築城 1583(天正11)年に秀吉が築いた豊臣大坂城は、1615(慶長20)年の大坂夏の陣で落城し、豊臣氏は滅亡しました。その後、江戸幕府の2代将軍徳川秀忠と3代将軍家光は、1620(元和6)年から1629(寛永6)年にかけて、豊臣大坂城の石垣を完全に埋めた上に徳川大坂城を築きました。 築城にあたって幕府は西日本の35か国64家の諸大名に工事を課し、旧豊臣方の外様大名に大きな負担を強いました。各藩は石垣をつくるために、瀬戸内海を中心に各地で石材を採石しました。 芦ノ芽グループの分布調査と発掘された採石場跡 徳川大坂城東六甲採石場の調査・研究は、1968(昭和43)年に県立芦屋高校生徒で歴史研究団体芦ノ芽グループ会員の小倉幸一さんが、六甲奥山山中で刻印石を発見したことが始まりです。それ以降、芦ノ芽グループが刻印石の分布調査等に精力的に取り組み、芦屋市域から西宮市域にかけて徳川大坂城東六甲採石場があることが明らかとなりました。 昭和60年代からは芦屋市教育委員会が発掘調査を行っています。岩ケ平刻印郡(六麓荘町)発掘調査では刻印石・矢穴石の他に、作業小屋跡(写真左)・鉄製工具を修理した小鍛冶場(写真右)などを発見し、当時の採石の状況がより明らかになってきています。 刻印石と矢穴石 【刻印石】 「刻印」と呼ばれる大名や藩などを 示す記号が彫られている石材。 【矢穴石】 石を割るクサビ状の矢を打ち込むための「矢穴」が彫られている石材。 市内で見学できる刻印石と矢穴石 徳川大坂城東六甲採石場を通して、東六芦屋と大阪城には深いつながりがあるのです。大阪城を訪れた時には、芦屋から運ばれた石のことを思いながら石垣を眺めてみてはいかがでしょうか。 ①三条八幡神社 刻印石を手水鉢に転用 ②松ノ内花壇 西山町の発掘調査で出土した ③市民センター前 西山町にあった刻印石。 矢穴もある ④六麓荘浄水場 六麓荘浄水場内(岩ヶ平刻印群)の発掘調査で出土 ⑤芦屋大学 岩ヶ平刻印群の発掘調査で出土 ⑥六麓荘緑地 岩ヶ平刻印群の発掘調査で出土 ⑦岩園天神社 境内の役小角像として矢穴石を転用 ⑧岩園第二児童遊園 岩ヶ平刻印群の発掘調査で出土 ⑨芦屋霊園 芦屋市霊園(奥山刻印群)の発掘調査で出土。市指定文化財「徳川大坂城東六甲採石場出土刻印石」 ⑩市立芦屋病院 敷地南西部の雑木林内にある巨石 ⑪朝日ケ丘集会所 呉川遺跡で出土した刻印石など ⑫若宮まちかどひろば 六麓荘町(岩ヶ平刻印群)出土の刻印石 ⑬宮川河床遺跡 浜打出橋から南約60mの川底にある矢穴石群 ⑭臨港線沿い 呉川遺跡出土の刻印石を移設 ⑮美術博物館前庭 呉川遺跡出土の刻印石を美術作品(山根耕「時を結ぶ」)として屋外展示。県指定文化財・伝芦屋廃寺心礎にも刻印が彫られている 芦屋の浜まで運び下された石材 (呉川町と西蔵町から出土した刻印石・矢穴石) 六甲山中で採石された石材は海辺まで運び下され、そこから船で徳川大坂城へと運ばれました。しかし、当時、徳川大坂城に運ばれなかった石材があります。それらは現在も宮川の川底に見ることができ(上図⑬)、花水木通りの建設中に出土した呉川遺跡の刻印石は臨港線の歩道や美術博物館の庭に移し展示しています。(下図⑭⑮) 採石した藩・大名の刻印 藩・大名    刻 印 出雲松江藩   堀尾山城守忠晴 若狭小浜藩   京極若狭守忠高 因伯鳥取藩   池田新太郎光政 播磨赤穂藩   池田右京太夫政網 防長萩藩    毛利長門守秀就 日向佐土原藩  島津右馬頭忠興 不明