02-03 特 集 絵葉書にみる 芦屋ひと昔 昭和15(1940)年11月10日に誕生した芦屋市は、今年で市制施行80周年を迎えます。芦屋市域は明治まで農村でしたが、芦屋市の前身である精道村のころ、明治の終わりから昭和のはじめにかけて、大阪や神戸の郊外住宅地として急激に発展しました。今回、カラー化した戦前の絵葉書から、ひと昔前の芦屋を紹介します。 問い合わせ 生涯学習課 ☎38-2115 阪神芦屋駅周辺のにぎわい(大正10年代) 現在の芦屋市役所東側の通りを南から見た風景です。 現在の尼崎信用金庫芦屋支店の並びには「御菓子司 きねや」や「チクオンキ レコード」などの看板がみられます。奥には阪神芦屋駅の踏切と電車が写っています。日傘をさした和服の女性やハットを被った男性、洋服を着た子どもたちが行きかっています。 芦屋の浜辺(大正) 芦屋の海岸は、古くは「漢人浜(からひとのはま)」と呼ばれており、古代から名勝地として広く知られていました。明治の終わりから昭和のはじめ、精道村が郊外住宅地として発展したころには、白砂青松の美しい景観が魅力の別荘地・名所となりました。また、芦屋浜では、避暑と健康促進を兼ねた海水浴が盛んに行われました。 業平橋と国道電車(昭和10年代) 業平橋を東から見た風景です。阪神国道(現在の国道2号)は、昭和2(1927)年に開通しました。この道路には「国道電車」と呼ばれていた路面電車が通っており、芦屋市域には「山打出」「芦屋駅前」「芦屋川」「津知」の4停留所がありました。 業平橋にあった芦屋川停留所に停まっている電車は昭和12(1937)年にデビューした阪神71形で、「金魚鉢」と呼ばれていました。当時の阪神国道は、自動車がほとんど走っておらず、和服姿の女性に混じり、洋服を着ている女性もいます。 芦屋遊園地(明治40年代) 現在の芦屋警察署あたりを南から見た風景と考えられます。 芦屋遊園地は、明治40(1907)年に精道村が芦屋川東岸に開園しました。 芦屋遊園地では、松林の散策や松露(しょうろ)と呼ばれるキノコ採りが楽しまれ、阪神間の名所として広く知られました。 芦屋の地曳網漁(大正~昭和初期) 明治の終わりごろから芦屋の浜辺は別荘地・名所として発展しましたが、それ以前よりイワシ漁を中心とした地曳網漁が行われていました。 芦屋の浜辺で獲れたイワシは「手を噛むほど新鮮」だったことから、魚売りが「ててかむイワシいらんかえ」と掛け声を挙げながらイワシを売り歩く風景がみられました。 阪神芦屋駅にあった貨物専用の引き込み線(大正10年代) 現在の阪神芦屋駅の東側踏切あたりを南西方向から見た風景です。左下には阪神芦屋駅のホームが、右下には梅田方面行きの電車が写っており、右上には甲山も見えます。右手に見える大きな建物(現在のパントリー芦屋店の場所)は大正3(1914)年に建てられた芦屋郵便局です。 また、阪神芦屋駅ホームの奥(北側)にも電車が停車しています。古い地図と見比べると、当時、ホームの北側には引き込み線があり、そこに電車が停まっているようです。当時の阪神電車は貨物輸送も行っており、この場所で荷物の積み降ろしをしていたと考えられます。引き込み線の北側には運送店がありました。 『精道村のあゆみ -郊外住宅地・芦屋の幕開け-』を刊行 芦屋市教育委員会では、令和元年(平成31年)に精道村が発足130年を迎えたことを機に、精道村に関する資料・情報の収集や、当時のモノクロ写真・絵葉書のカラー化などを実施しました。今回紹介したカラー化絵葉書もその一部です。 収集した資料や情報をもとにパンフレット『精道村のあゆみ―郊外住宅地・芦屋の幕開け―』を刊行しました。パンフレットは、生涯学習課の窓口で無料配布しており、市ホームページにもPDFデータを掲載していますのでぜひご覧ください。 問い合わせ 生涯学習課 ☎38-2115