02-03-04 特 集 広げよう平和への想い 問い合わせ 人権・男女共生課 ☎38-2055  今年は、日本が悲惨な戦争を経験してから75年を迎えます。  芦屋市では、7月13日から8月23日まで「みんなで考えよう 平和と人権」を開催しています。  芦屋市でも、終戦間近の昭和20年5月から8月にかけて、4回にわたる空襲によって、総人口の約半分が被害を受け、家屋は総戸数の約4割、特に学校校舎は8割を失うこととなりました。そして何より耐え難いのは、139名の尊い命が犠牲になったことです。  この惨禍を2度と繰り返さないために、戦争の記憶が風化しないよう、本市では以前から戦争を体験された市民の皆さまの声を記録に残してきました。  平成29年にはその記録を再編集し、平和記録集を発行しましたが、その中には、前述の昭和20年5月の初空襲の様子など生々しい記録も掲載されています。  これらを読むことは大変つらいことです。しかし、これらの記録にふれること、また、数々の戦争遺品などを通して、平和は当たり前にあるものではなく、人々の不断の努力によって、築き上げられるものであることを、私を含め、戦争を知らない世代一人ひとりが、自ら考え、次世代へとつないでいかなければなりません。  戦後の日本が、平和な時代を築いてきたことは、世界に誇れることですが、世界に目を向けると、今もなお、悲惨な戦争やテロにより、多くの尊い命が奪われていることを忘れてはいけません。  私は、平和を作る第一歩は、相手の想いを汲んだり、想いを巡らせること、思いやる心によって、人と人がつながりを持つことだと常々感じています。  今後も、この想いを忘れず、毎年続けている「みんなで考えよう 平和と人権」事業をはじめ、様々な平和事業や核兵器廃絶を実現するための「平和首長会議」の取組を通して、市民の皆さまとともに、一歩ずつ平和な世界の実現へと歩みを進めてまいります。  表紙の写真は、コロナ禍においてマスク着用し、蜜を避けながらも真剣なまなざしで平和を学ぶ子どもたちです。 こんな時だから、大切なことは大切に。                    芦屋市長 いとう まい  芦屋のまちが焼け野原になった ─阪神大空襲の惨状─  芦屋市は、昭和20(1945)年5月11日、6月5日、6月15日、8月5日~6日の計4回、米軍による空襲を受けました。これらの空襲によって139名が亡くなり、市街地の約4割が焼失しました。  昭和19(1944)年から始まった米軍のB29爆撃機による日本本土空襲は、当初は軍需工場を攻撃目標にしていましたが、目標が雲で見えずに破壊できないことが多かったことから、焼夷弾(しょういだん)による絨毯爆撃(じゅうたんばくげき)で市街地を焼き払う方法に切り替わりました。これは一般市民を殺傷する非人道的な無差別爆撃で、昭和20年3月10日の東京大空襲を最初として、名古屋(12日)、大阪(13日)、神戸(17日)が焼き尽くされました。5月以降は中小都市も空襲の対象となり、6月5日朝に受けた2度目の神戸大空襲では、芦屋市にも焼夷弾が投下されました。6月15日午前の大阪・尼崎空襲でも芦屋市が爆撃されました。  そして、8月5日深夜~6日未明の空襲が、芦屋市に最も大きな被害をもたらしました。この空襲は、西宮から御影の市街地が攻撃目標で、「阪神大空襲」と呼ばれています。8月5日深夜に飛来したB29が大阪湾上空に照明弾を投下し、市街地が真昼のように照らし出されました。間もなく、130機のB29が芦屋市街から香櫨園、西宮市街へと焼夷弾を投下し、火の手が次々と上がり、火災がみるみるうちに広がっていきました。焼夷弾の雨が降り注ぎ、一面火の海となる中、爆音と高射砲の強烈な音が、逃げ惑う人々の叫び声をかき消しました。芦屋の市街地は一面炎に包まれ、火の粉で真っ赤な地獄の空となりました。  この空襲の惨状を語った市民の証言があります。「浜芦屋町の家族はお父さんが出征中で、お母さんと子ども二人が防空壕の中で蒸し焼きになり、小さくちぢんで死んでおられたのは気の毒でした」、「防空壕の中をのぞくと、お母さんが1歳の次女を抱き、5歳の長女と3歳の長男が足を伸ばし、壁にもたれて死んでいました。窒息死でした。防空壕の入口で焼夷弾が燃えていて、出るに出られなかったんです。みんなロウ人形みたいでね。顔だけはオレンジ色に変わっていました。もうかわいそうで」。この空襲で、芦屋市内には焼夷弾が約1,500発、小型爆弾が約40発投下され、その被災状況は、死亡者89名、重傷者44名、全焼2,732戸、被災者16,379名となっています。    今から75年前、芦屋が空襲を受け、多くの市民が亡くなり、何の罪もない多くの子どもたちが犠牲になりました。生き残った人々の多くも、心に大きな傷を負ったのです。戦争の恐ろしさをしっかりと後世に伝えていかなければなりません。 日本と芦屋の太平洋戦争関連年表         日 本     芦 屋 1941年   太平洋戦争(~45)    12月 真珠湾攻撃 1944年11月 東京がB29の       初空襲を受ける 1945年3月 東京大空襲    4月 沖縄に米軍が上陸    5月           第1回空襲(5/11)    6月           第2回空襲(6/5)                 第3回空襲(6/15)       沖縄が占領される  学童疎開の                 指令が出る    8月 原子爆弾の投下   第4回空襲       広島(8/6)長崎(8/9) (8/5~6)       終戦(8/15) 〈特集〉広げよう平和への想い 芦屋市平和記録集「たゆまぬ平和への歩み」~芦屋市民の記録~より抜粋  昭和20年5月11日、私は、阪神芦屋駅の北側にあった芦屋郵便局の2 階で仕事をしていました。  正午頃、空襲警報が鳴り、大粒の雨が一度に降るようなザーという音がしたので、窓から西の空を見ると、B29の編隊がこちらに向かって来ており、急いで階下に下り、通用口のセメントにペタッとうつ伏せになり両手の親指で耳を押さえ、残りの指で目を押さえ、口を固く結んでじっとしていました。  しばらくして防空壕に逃げていた同僚たちが帰ってきて、「青木の川西航空がやられたらしい。」と聞き、仕事が終わってから電車の走っていない線路に入り、枕木の上をタッタッと歩いて、深江の駅を南へ出ると、吹き飛ばされた防空壕があり、その横に土埃をかぶった青黒い顔の死体が並べて置かれ、髪の長いモンペ姿の女性、その横に2、3歳くらいの子ども、その隣に男性の死体があり、思わず手を合わせました。  旧国道(現在の国道43号)に出ると、牛が目をむいて座っており、腸が飛び出していました。数メートル離れたところには、 荷馬車が横に転がり、 馬が足をそろえて倒れていました。爆風にやられたのでしょう。もう青木の川西航空に行くのをやめて帰りました。  その日は、 国鉄の芦屋駅(現在のJR芦屋駅)と岩園小学校に爆弾が落とされました。岩園小学校には、兵隊さんが大勢いましたから狙われたのだと思います。  8月15日正午に終戦の放送を聞いて、へなへなと座り込んで泣きました。張り詰めていた気持ちがくずれました。  私の家は、岩園町の少し高い所にあり、夜になって市内にポツリポツリと灯りが見えた時は、「本当に戦争は終わったんだ。」と思い、 電灯の黒い布を取り除きました。  秋になり、長い間病気で寝込んでいた母が、「何かおいしいものを食べたいなあ。」と言いますので、三ノ宮の国鉄のガード下にある闇市へ行き、大勢の人に押されながら、やっと「いかのにぎり寿司」を見つけ、1個10円のを10個買い、母の喜ぶ顔を思い浮かべながら、 家に帰りました。布団の上に起き直った母は、拝むようにして、ひとロひとロゆっくり食べて、2個を食べ終えて横になり、「ご馳走さん。後はあんたたちで食べなさい。子どもより先に食べて悪いなあ。」と言いました。  明けて昭和21年1月に、母は亡くなりました。私と弟の二人で葬儀のことなど途方にくれましたが、弟が友達と二人で板を拾い集め、棺おけをつくり、母の身体を納め、借りてきた大八車に棺おけを荒縄でくくりつけ、薪を積んで三条の焼場まで運び、火葬を済ませホッとしました。  あの頃の私は「いつ死んでも仕方がない。」という覚悟のようなものはもっていましたが、とにかく「今晩は空襲もなくぐっすり眠れるか、明日は何を食べようか」で頭がいっぱいでその時その時を切り抜ける毎日でした。  戦後、折にふれて思うことは、「戦争とは、人と人の殺し合いと破壊を集団で行うこと」。よーいどんで戦争が始まることはない。必ず火種がある。それを見極めるため、 報道の自由と公平な学校教育が大切です。 戦争に関する記録集を発行しています ■芦屋市平和記録集「たゆまぬ平和への歩み」 ■芦屋市戦争体験記録集「未来へつなごう戦争の記憶」 ■芦屋市平和記録集「語り継ごう平和への想い」 ※市役所分庁舎1階 人権・男女共生課にて配布しています。  ぜひご覧ください。(市ホームページからダウンロード可) 問い合わせ 人権・男女共生課 ☎38-2055 〈特集〉広げよう平和への想い 平和への取り組み 問い合わせ 人権・男女共生課 ☎38-2055 市内にある平和のシンボル 平和のモニュメント 悲惨な戦争を二度と繰り返してはならないことを後世に伝え、恒久平和を願う「平和モニュメント」を市民が主体となって、平成12年11月(市制施行60周年)に市役所北館前広場に建設しました。 非核平和都市宣言銘板 芦屋市議会が「非核平和都市宣言」を決議してから30周年を記念して、平成27年10月(戦後70年)に市役所北館前広場の花壇に設置しました。 優愛の鐘 平成14年から始まった「平和の鐘を鳴らそう」行事では毎年8月15日に市民センターの玄関横に市民が集い、『優愛の鐘』を鳴らし、戦没者への追悼と平和への祈りを捧げています。 被爆樹木アオギリ二世 平和への願いを込めて、平成29年5月に市役所東館北側緑地に苗木を植樹しました。次世代へ平和の尊さを伝えるシンボルとして成長し続けています。 被爆75年を迎える広島・長崎では、原爆死没者の慰霊と平和祈念の式典が行われ、黙とうがささげられます。市民の皆さんも、1分間の黙とうにご協力をお願いします。 広島原爆忌 8月6日 8時15分 長崎原爆忌 8月9日 11時2分 平和の鐘を鳴らそう! 心の中に平和の砦(とりで)を―  戦後75年という月日が経ちました。戦争の惨禍を二度と繰り返さず、平和への貢献を提唱して誕生したのが「ユネスコ」です。  ユネスコ憲章の前文に、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」との言葉があります。芦屋ユネスコ協会では、毎年終戦記念日に当たる8月15日に、芦屋市と教育委員会と共催で「平和の鐘を鳴らそう」の行事を実施してきました。  市長をはじめ協会会員や市民の皆さんが集い、「平和宣言」を唱和して正午のサイレンに併せて黙祷を捧げ、一人一人が戦争のない平和への祈りと願いを込め「優愛の鐘」(芦屋市婦人会寄贈)を打ち鳴らします。式典後は、戦時中の生活の悲惨さを思い出しつつ、すいとん・ふかし芋・おにぎりを食べながら、戦争の記憶や戦中・戦後の体験を語り継ぐ催しです。今年は新型コロナウイルス感染症の影響により、式典のみになりました。  戦後75年が経過し、戦争の記憶を後世に語り継ぐことが年々困難になってきています。そこで、皆さんの貴重な体験談を芦屋ユネスコ協会にお寄せください。皆さんの記憶を、今後も大切に語り継ぎたいと願っています。 ■日時 8月15日(土)午前11時45分 ■会場 市民センター ■内容 みんなで「平和宣言」を唱和し、正午のサイレンに合わせて黙とう。「平和への祈りと願い」を込めて、平和の鐘(優愛の鐘)を鳴らします。  ※おにぎり・お茶(75人分)をご用意しています。 問い合わせ 芦屋ユネスコ協会事務局 ☎38-2091/[ファクス]38-2072 絵本で育む平和の心 読み聞かせで学ぶ  NPO法人「絵本で子育て」センターは、子育て中に親子で共に絵本を読む楽しさ、大切さを語り伝える活動をしています。  大好きな人の声で絵本を読んでもらうのは、心安らぐひとときです。短い時間でも、一緒に絵本を開いて心から笑ったり心を揺さぶられたりすることは、生きる力を育むでしょう。  心ない言葉は、人の心を深く傷つけます。情報の媒体が様変わりして争いの形も変わる中、温かく相手を思いやることや思慮のある言葉を伝える力が求められています。絵本には、そんな時代の明るい光となる確かな力があります。  絵本を通して、わくわくする楽しさや寛ぎを味わうだけでなく、戦争、核、人権、そして平和についても考えることができます。芦屋市の「たゆまぬ平和への歩み」展では、読み聞かせや百冊余りの絵本の紹介を行ってきました。  子どもたちの幸せと平和な未来を願う世界中の絵本作家によって、心を込めて綴られてきた絵本たち。絵本には、想像力をかきたて、世界の美しさや、そこに生きる人々の命の尊さを伝える不思議な力があります。  だからこそ、幼い心にも確かに届いていると思うのです。  自分やまわりの人、遠く離れた人々をも心から大切に思い、見えないものを大切に感じる生き方こそ“平和”ではないでしょうか。