04 特 集 2 戦争の記憶を忘れない 『写真週報』からみる戦時下の生活 問い合わせ 人権・男女共生課 ☎38-2055 「戦争という事実を後世に伝えていってほしい」 市内在住の高瀬光代さんの父、小泉誠一さんが所蔵していた『写真週報』の寄贈をいただきました。多数寄贈いただいた中から4点を紹介します。 『写真週報』は内閣情報部(のち内閣情報局)が戦時中の国策をカメラを通じて国民にわかりやすく知らせるために発行された週刊のグラフ雑誌です。 昭和13(1938)年2月16日(創刊号)から昭和20(1945)年7月11日まで全部で370冊発行されました。【国立公文書館 アジア歴史資料センター『写真週報』にみる昭和の世相より】 芦屋市の戦災の状況 芦屋市では、終戦間近の昭和20年5月から8月にかけて、4回にわたる空襲により総人口の約半分が被害を受け、家屋は総戸数の約4割、特に学校校舎は8割を失い、139人もの尊い命が犠牲になりました。 「万夷必殺を期す陸軍特別攻撃隊」 「特別攻撃隊の出動がなにゆえにかくも銃後国民の心底を揺さぶり、その胸奥を掻きむしったのであろうか。それは彼等の出陣に『生還』がなく、彼等の攻撃が即ち死を意味するからである。」とあるように、戦闘によって多くの若者の命が失われました。 【出典:写真週報 第349号】 「一億みんなで飛行機を造るのだ」 「銅貨・白銅貨・ニッケル貨で貯めたお小遣いが飛行機になる。なんと、うれしそうなヨイコ」と子どもの小遣いまでもが戦闘のための飛行機増産に使われていました。 【出典:写真週報 第300号】 「決戦衣服はこれだ」 つぎだらけのズボンに、短くなった上衣を纏って戦闘訓練をする当時の中学生。衣服の新調をしないことが、決戦下の衣生活で一番大切なことと強調されていました。 【出典:写真週報 第279号】 「東京都立家政女学校の学校工場」 「工場を教室として教室を工場として君等の勤労が日本を勝利へ導くのだ」と戦意高揚を伝えています。 【出典:写真週報 第318号】 寄贈された写真週報は 「たゆまぬ平和への歩み展」で展示します ■期間 8月10日~31日 ■場所 市役所北館1階展示コーナー ~私の戦争経験~ 満州での生活から日本への帰国 公社 芦屋市シルバー人材センター SLS(シニアライフトータルサポートチーム) 北川 知可子さん  開拓団として昭和18年に満州へ渡った当時の生活の状況から帰国までの実体験を語っていただきました。  当時11才の北川さんは、どこまでも地平線が続く満州の荒野(冬はマイナス30度まで下がる環境)で生活を送っていました。昭和20(1945)年、終戦の夏に開拓団の一同は日本への帰還命令を受けましたが、帰国への道のりは壮絶なものでした。「満州から次の町を目指して徒歩や列車で移動しました。3日ほど舗装もない泥の道を歩き続けた事もありました。飢えや感染症で昨日まで一緒にいた人たちが次々に命を落としていきました。〝私は絶対に生きて日本に帰る“その強い気持ちだけを持ち続けて帰ることができたのだと思います。帰還船から緑豊かな日本列島を目にした時は、喜びや懐かしさから涙が止まりませんでした。でも、一緒に帰国を目指していた妹は、途中で中国人の夫婦に貰われてしまい帰ることは叶いませんでした。何度も行方を捜索しましたが、今も会えずにいます。」  北川さんは、「戦禍の中で人々は理不尽なまでに人生を左右され『家族で一緒に暮らしたい』そんな願いさえも叶うことができない時代があったこと、自分が経験したあの戦争下での体験を今のうちに多くの人に伝えておきたい」という思いを講演などで語っています。 第68回ふれ[出演]シネサロン 「おかあさんの被爆ピアノ」 ■日時 8月28日(土)午前10時~正午・午後1時30分~3時30分 ■会場 上宮川文化センター ■定員 70人 ■持ち物 上履き・靴袋 ■申し込み 8月2日から電話で下記へ(託児6カ月~未就学児・8月20日までに下記へ) ■問い合わせ 人権・男女共生課 ☎38-2055 映画「おかあさんの被爆ピアノ」 五藤利弘監督から 芦屋へ メッセージ  昨年は、終戦、被爆から75年の節目の年でした。芦屋市もまた、阪神大空襲から75年の節目でした。戦争の記憶が薄れた今、忘れてはいけない苦難の記憶を改めて心に留めることが大切なのだと思います。  広島や長崎で被爆した人、その家族は差別を受けたと言います。東日本大震災では福島の人たちが差別を受けました。今コロナ禍の中、感染した人が差別を受けています。歴史の中で学んできたはずのことを全く学んでいないことが分かりました。被爆について、被爆者について、そして戦争について、そして差別について、考えるきっかけがとても大切だと改めて感じました。  僕自身、被爆ピアノに携わるまで広島の原爆のことをほとんど知らずにいました。取材していくうちに被爆した人たちの苦しみや痛みなどを少しずつ知りました。きっかけがなければ知らなかったことです。この映画が、若い方や、戦争、原爆に興味がない方にとって一つのきっかけになれたらと強く思っています。