02-03 特 集 知ることが    第一歩 8月15日は、終戦記念日です。忘れてはいけない夏が、今年もやってきました 今から77年前、広島(8月6日)と長崎(8月9日)に、 恐ろしい原子爆弾が投下されました。 多くの人の命が犠牲になった戦争の惨禍を二度と繰り返さないために、戦争の記憶を風化させることのないよう、あらためて戦争の悲惨さと平和の大切さについて考えてみましょう。 問い合わせ 人権・男女共生課 ☎38-2055 子どもの目からみた戦争 今回インタビューをした宮本さんは、芦屋で生まれ育ち幼少期に戦争を体験しました。現在は、語り部として芦屋市での戦争体験を子どもたちに伝える活動をしています。当時小学生だった子どもの視点から戦争の体験を聞きました。 語り部としての一歩 私が語り部として活動するきっかけは趣味として、エッセイを書いたり仲間で手作りの冊子を作っていく中で、「空襲の記憶」という戦争体験の文書が市役所の人の目に止まったからです。そこから、平和や戦争について学びたいという甲南高校の生徒と文通をしたり、岩園小学校で平和教育の話をすることになりました。学校からの感想文には「戦争があったという事を僕も伝えていきたい」と書いてあったのを見て話をして良かったと思いました。 勉強ができない学校 昭和16年12月に真珠湾攻撃で戦闘状態に入ったことを何度もラジオで聞き、子ども心に戦争が始まったと思いましたが、戦争がどういうものかその時は分かりませんでした。戦闘状態に入ったという放送から、食べ物が段々となくなり貧しくなっていきました。 戦時中は、西芦屋町に住んでおり昭和17年4月に山手国民学校へ入学しました。隣の月若町は、焼夷弾が落ちて焼けてしまったという記憶があります。 学校では勉強をするのではなく、逃げる練習や爆弾が落ちたら鼓膜が破れたり目がつぶれるため、一・二・三で耳や目を押さえる練習もしました。 戦時中に覚えている辛い思い出があります。学校の先生が生徒に家で横文字の物があれば親に言って捨てるよう言われました。父は趣味でカメラ雑誌やレコードを持っていたので私は捨ててくれと頼みました。父は「何というばかなことを言うんだ。」と言い、私は捨てないと先生に叱られるとワーワー泣きました。すると親が当時よく聴いていたレコードを持ってきて「これでいいんか!!」と言ってパーンとレコードを割った姿が今でも目に浮かびます。その後、父が私の大事にしていたセルロイド人形のメリーちゃんを持ってきて「今度はメリーちゃんの番だ。これも敵国の人形だよ。どうする?」と言いました。私は「助けて、助けて。」と泣き続けると、父は「このメリーちゃんという名前がいかん。名前を変えよう。」と“すみれちゃん”に変えてくれました。そんなバカげた時代の瞬間を子どもながらによく覚えています。 芦屋のまちにも 5月11日に阪急芦屋川駅のすぐ北側で250㎏の大型爆弾が落とされ、町の真ん中に大きな穴が開きました。空襲警報で走って家に帰ると、稲光のような光とともにガラスが飛び散りました。その爆弾で私のお友達の妹さん2人が亡くなりました。それが初めての爆撃の印象でした。また、三条南町の外科医院へ血まみれの人々が戸板に乗せられて運ばれて行くのを怖い思いで見ていました。 6月にも空襲がありましたが8月の空襲が一番ひどかったです。原爆の落ちた日です。6日未明、夜が明けきらなかった頃に小型爆弾と焼夷弾が落ち、ボロボロになりながらも家は焼けずに建っていましたが無数の爆弾の破片が突き刺さっていました。小型爆弾は、破裂するとたくさんの破片が飛びます。地面に落ち爆弾が破裂し、防空壕からふっと顔を出した隣のおばさんの首に爆弾の破片が刺さったこともありました。 当時は小学校での集団疎開や子どもだけで疎開をする縁故疎開が見られました。私は田舎の親戚の所へ1人で疎開する用意をしていましたが「私ら親が死んだら子ども1人でどないするの?死ぬときは一緒」という考えで疎開をやめました。周りの友達はどんどん疎開していくため日に日にいなくなりました。 これからの日本 ウクライナ侵攻や民族紛争など難しい問題ですが、今世界中に原爆が2万発もあるんです。原爆を持っていたら抑止力になるというのがそもそもおかしいと思います。ウクライナの現状は、毎日テレビで見ることができます。77年前に同じことが日本でもあったんです。東京では、一晩で10万人が死にました。たとえ戦勝国になったとしても、兵士をたくさん死なせて犠牲を払っています。戦争ほど愚かなものはありません。戦争は不幸しかもたらしません。若い人達が「戦争は絶対してはいけない」と思い続け、言い続けることしかないと思います。あとは夢物語かもしれませんが、世界中が「せーの!」で軍隊と兵器を捨てること。日本は原爆を受けた側としてもっと強く言っていかないとだめですね。 学生たちの 取り組み 市内にある兵庫県立国際高等学校では、生徒たちがクラブ活動等を通して平和について知識を深め、実際に交流・活動をしています。今回は2つのグループを紹介します。 ガザ地区は過去に何度も軍事侵攻を受け、1年前にも大規模な空爆を受け多くの命が奪われました。人や物の出入りが厳しく制限されたことにより人々は国連や支援団体からの援助物資などで命をつないできました。 1 国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が運営するガザ地区の学校の子どもたちとの平和交流が行われました。参加者の小田垣さん・竹中さん・谷垣さん・竹内教諭のお話を聞きました。 今回の交流に至った経緯や交流に参加したきっかけは何ですか 竹内教諭 さまざまな国とオンライン交流をされている先生の協力を得て、オンラインだからこそ交流ができる地域を探していたところパレスチナのガザ地区が候補として挙がってきました。 小田垣 以前にドイツやフィンランドとの交流をしたことがあったのですが、その時は、文化・流行に興味があり参加しました。今回はパレスチナ問題を知るなかで、どのような暮らしをしているのか興味があり、歴史的背景や現在の国際情勢を意識したものだったので参加しました。 交流して気づいたことはありますか 竹中 ガザ地区の人たちの生活について知らなかったので、閉鎖的な空間で生活をしている印象がありました。交流をした時、日本のアニメに興味をもっている生徒がいて「ワンピース」や「進撃の巨人」の話で盛り上がりました。YouTubeやインスタグラムなどもしており、宗教・文化・言語の違いはあっても、日本で暮らす私たちと変わらない暮らしをしている部分もあるんだと思いました。しかし、ガザ地区の人たちは常に命が危険にさらされている状況であることをしっかりと理解しておかなければならないと思いました。 今回の交流をきっかけに皆さんは平和についてどのように考えていますか 谷垣 平和について調べたときに、辞書では「争いのない状態」と記載されていました。もちろん「争いのない状態」も平和だと思いますが、それだけでなく、人が身体的にも精神的にも傷つかず、幸せに暮らせる状態が平和ではないかと思います。 竹中 戦争がなくても、差別や暴力があって一人ひとりが生きづらさを感じていれば、平和とは言えないと思うので、「あたりまえ」とされている価値観や状況でも違和感を感じることができる環境になっていけば平和な状態に近づいていくのではないかと思います。 2 ロシアによるウクライナへの軍事進攻で犠牲になっている多くの人たちを支援するため、国際高等学校のJRC(青少年赤十字)部員や有志の生徒がウクライナ人道危機支援街頭募金活動を行いました。募金活動に参加された髙田さん、園田さん、高重さん、安藤教諭からお話を聞きました。 支援活動の中心となったJRC部は、どのような活動をしているのですか。今回の支援に至ったきっかけは? 安藤教諭 新型コロナウイルス感染拡大前は東日本大震災の被災地へのスタディツアーや国際問題を勉強し、街頭募金活動を中心に行っていました。他には、貧しくて学校に行けないケニアの高校生たちの奨学金支援を行っています。今回の活動のきっかけは、ニュースなどでロシアによるウクライナ侵攻を見て、部員から街頭募金をしたいという提案を受けたことです。 街頭募金活動に参加されたきっかけは? 髙田 ウクライナのことについてあまり知りませんでしたが、今回のウクライナ侵攻に関するニュースでリモート中継されていた時、私たちと同じくらいの子どもたちが苦しんでいる姿を見て、見過ごすことができませんでした。授業でも避難民について調べた時に、ウクライナの人が避難民として日本へ来るニュースを見て何か役に立つことができないかと思い、参加することを決めました。 実際に募金活動をして、感じたことはありますか 高重 たくさんの方が募金をしてくださり「頑張ってね」という声だけでなく、「戦争がなくなりますように」と手を合わせて募金をされた人もおられました。募金活動を通して離れていてもできることがあるんだということ。そして、多くの人が戦争がなくなってほしいという気持ちを持っているのだということに気付くことができました。 皆さんは平和についてどのように考えていますか 園田 軍事侵攻を止めることや平和になるためには、世界が一つになって行動することが大切だと思います。私は、今回学んだことを同級生や身近な人たちに伝えていきたいと思います。 全員 今後もこのような活動に参加してみたいと思います。今回の募金活動にご協力いただいた地域の皆さんに心より感謝申し上げます。 たゆまぬ平和への歩み展 軍国主義全盛の戦時下、小学生・中学生時代を芦屋で過ごし、戦争を体験された高瀬湊さんのご家族から戦争資料を多数寄贈いただき展示をしています。 ~高瀬さんのコメント~ 「遅かれ早かれ、我々もやられて死ぬ。」それが当たり前でしたから、悲壮な気持ちはありませんでした。「死」というものに感覚が麻痺していました。それだけ、当時の教育とは恐ろしいものでした。 ■期間 8月31日(水)まで ■場所 市役所北館1階展示コーナー