02-03 特集 新春スペシャルインタビュー 海洋冒険家・ヨットマン 堀江 謙一 昨年6月にヨット単独無寄港での太平洋横断に成功。最年少での太平洋横断から60年、世界最高齢の83歳で偉業となる航海を成し遂げた海洋冒険家・堀江謙一さんに今回の冒険や新たな挑戦などについてのお話を伺いしました。 コロナに翻弄   されつつ出港 60年前の初めての航海時には、最高齢で挑戦することなど全く考えていませんでしたが、航海を続けている間に100歳までは続けられたらいいなと思うようになりました。100歳まで待とうかとも考えましたが、80歳を超えてもまだまだ元気なのに何もしないのはもったいないと思い、今回の挑戦を決めました。本当は2021年に挑戦するつもりでしたがコロナ禍ということもあって、なかなか準備を進めることができず2022年になりました。おかげさまで「最年少での太平洋横断から60年」というキリのいいタイミングになりました(笑)。 今回のヨットは設計を横浜で、造船を広島で行いました。コロナ禍で神経質になっている時期でしたので、会って打ち合わせをすることができませんでした。またサンフランシスコから出発する72時間前にコロナの陰性証明書も提出する必要があり、直前まで航海に出られるかわかりませんでした。航海に出てしまえば一人なので感染の心配はありませんが規則ですからクリアする必要がありました。 航海中は   無意識でも集中 航海中の生活は、日が昇ったら起きて、日が沈んだら休むという太陽中心の生活を送ります。食事も日が出ている間にとり、日が沈むと基本的には食べません。お腹がすいた時は果物のような調理しないで食べられるものを食べていました。 ヨットはだいたい時速7,8kmで進みます。ヨットにあたる波の音で順調に進んでいるかわかります。寝ているときにも、半分寝ぼけながら波の音や船体の揺れを感じています。無意識でもずっと集中しているので神経を使います。毎日の衛星電話の交信も、待ち構えていないと取り損ねることがあり大変でした。着信音が波の音にまぎれてしまうこともありました。 それでもヨットに乗っているのは楽しいです。ヨットを操縦していると、「ここをこうしたらよかった」「ああしたらよかった」と反省点に気づき、「次はこうしよう」と勝手に次のヨットの夢を描いていました。航海を計画している時も、ヨットを建造している時もワクワクしていました。ずっとワクワクしっぱなしの2年間の挑戦でした。 アベレージで   進んでいたらいい 60年前の航海では北寄りのルートをとりましたが、今回の航海のルートは南寄りをとりました。このコースは貿易風帯が中心となります。貿易風は安定している東風でヨットにとっては理想的で最上級の風です。今回もよく風が吹いてくれ、思った以上に順調に進みましたが、航海中には天気の悪い日や後退した時もありました。衛星通信を利用したトラッキングシステムで1時間ごとの現在地が地図に表示され、ホームページで見ることができたので、よく見てくれている人の中には「後退しているけど大丈夫か」と妻に連絡をくれた人もいました(笑)。気持ちは一緒に航海してくれていたんですね。 ヨットは1日に200kmくらい進むので、1時間後退していても24時間では進んでいます。進む日もあれば、進まない日もあります。それでもアベレージで進んでいたらいいと思っていました。 自然に溶け込む   ことがコツ ヨットを始めたきっかけは68年前に関西大学第一高等学校に入学し、ヨット部に入ったことです。まだ終戦から9年しか経っておらず、日本が復興している時期でした。そんな時代にヨットをしている人はほとんどいませんでした。ヨット部に入っていなければ今日のヨット人生はなかったでしょうから、この出会いは私にとって幸運でした。 ヨットと他のスポーツとの一番の違いは、動力源です。私も中学生のころは体操をやっていましたが、動力源は自分の体です。一方、ヨットの動力源は風です。風の力をいかにうまく使うのかが重要で、自分のエネルギーは操縦に使うだけです。筋力や肺活量をあまり必要としないことが幅広い年齢の人が楽しめる要因でしょう。 ただ、相手は自然ですからなかなか思うようにはいきません。風は360度どこから吹いてくるかわかりません。自然と対決するのではなく、自然に溶け込むことがコツです。大抵はうまくいきませんけど、まれにパチッとはまることがあります。その瞬間が忘れられない快感です。その気持ちよさがここまでヨットを続けられた理由です。 今が私史上   いちばん強い 航海中は不安になることがあります。「休んでいる間に、この風が倍強くなったらどうしよう」と自身の想像力で自分自身を追い込んでしまうことがあります。悪く考え出すとどんどん悪い考えにとらわれてしまいます。自分の想像力が一番怖いです。 恐怖を乗り越えるためには経験を重ねることが必要だと考えています。今までの航海時にもたくさんの嵐にあいました。やはり同じように「この風が強くなったどうしよう」、「もっと大きい嵐が来たらどうしよう」と考えて怖くなる時がありました。ですが、何度も何度も嵐を乗り越えていくうちに「これくらいの嵐なら大丈夫」と限度がわかるようになっていき、自分自身がだんだんと強くなっていきました。そんな意味では今が私史上一番強いですね(笑)。 誰しも強い人間になりたいと思うでしょうが、思っているだけでは強くはなれません。何事も経験を繰り返すこと、一歩を踏み出して挑戦することが重要です。実際にやってみたことは自分自身の宝物になりますしね。 空想に   できないことはない 何かに挑戦することを難しいと思う人がいるかもしれません。ですが、皆さん誰しもが何らかの形でずっと挑戦していると思います。不器用な私にとっては、たまたまそれが長く続けられているヨットであっただけです。 挑戦は空想から始まります。空想は誰にでもできますし、できないことはありません。今回の挑戦も空想から始まりました。ヨットのことや、航海のことを空想するだけでも楽しいです。若い皆さんも是非空想してみてください。 私は今、風を受け、海を見ながら、頭の中に世界地図を広げて過ごしています。 芦屋の海から無限大   に広がる世界の海へ 高校のヨット部に所属していたころ、北風が吹いた時の練習場所はきまって芦屋の沖でした。今はもう無いですが、焼却炉の高い円筒を目指してヨットを走らせていたのを強く覚えています。後にその一帯が宅地になったと聞いた時、是非ともそこに住みたいと思い、1980年5月に芦屋浜シーサイドタウンに引っ越しました。29階の部屋に住んでいましたが、そこからは大阪湾で一番背の高い“友が島灯台”の明かりを見ることができ、それがとても嬉しかった。本来、友が島灯台の光到距離(光が届く距離)は38kmですが、地上85mの高さですと50km以上離れた芦屋市まで光が届くんです。その明かりを見るたびに青春時代に戻れる気がしました。夢のような気持ちでした。 紀伊水道を越えて友が島灯台を越え、六甲の山並みが見えると"ほっと"します。山もあって海もある、街自体も美しい芦屋はいいところです。市域は狭く空間が限られていますが、海は港から世界の海につながっており、空間は無限大に広がっています。それをもっと活用できたらいいですね。 100歳まで   挑戦を続けたい 体が動くうち、心臓が動くうちは100歳まで挑戦を続けたいと思っています。 今はまだ言えないですが、次の挑戦も思い描いています。これまでの12回の航海を見返していただければ、次にどんなことに挑戦するかわかる人もいるかも知れません。発表した時にそれがあっているか楽しみに待っていてください。 Profile 堀江 謙一  ほりえ けんいち 大阪府大阪市生まれ。兵庫県芦屋市在住。 1954年関西大学第一高等学校入学同校ヨット部入部。 1962年単独無寄港太平洋横断に成功。その偉業を評価されサンフランシスコ市長から「名誉市民の鍵」を受け取る。この航海の手記「太平洋ひとりぼっち」がベストセラーになり、石原裕次郎主演で映画化された。その後も、世界一周や太平洋横断など数々の航海を続ける(下記航海一覧参照) 1997年アルミ缶リサイクルのソーラーパワーボートで単独太平洋横断の航海の成功を讃えられ、エクアドル共和国政府がガラパゴス諸島の岬に「堀江謙一船長岬」と命名した。2011年内閣総理大臣賞など受賞。 堀江謙一さん 主な航海 1962(昭和37)年 世界初の単独太平洋横断に成功(西宮~サンフランシスコ) 1974(昭和49)年 単独無寄港世界一周(ケープ・ホーン西回り) 1982(昭和57)年 世界初の縦回り世界周航に成功 1985(昭和60)年 世界初、ソーラーボートで単独太平洋横断(ホノルル~父島) 1989(平成元年) 世界最小ヨットで単独太平洋横断(サンフランシスコ~西宮) 1993(平成5)年 世界初、足漕ぎボートで単独太平洋横断(ホノルル~沖縄) 1996(平成8)年 アルミ缶リサイクルのソーラーパワーボートで単独太平洋横断         (南米エクアドル~東京) 1999(平成11)年 業務用生ビール樽とペットボトルを再利用した双胴船で単独太平洋横断         (サンフランシスコ~ホノルル~明石海峡大橋) 2002(平成14)年 ウイスキー樽を再利用したヨットで単独太平洋横断(西宮~サンフランシスコ) 2005(平成17)年 単独無寄港世界一周(ケープ・ホーン東回り) 2008(平成20)年 世界初、ウエーブパワーボートによる単独太平洋横断(ホノルル~紀伊水道) 2022(令和4)年 世界最高齢での単独太平洋横断(サンフランシスコ~西宮)