02-03 特集 阪神電車開業120周年と住宅地・芦屋の発展 阪神電車(阪神電気鉄道)は今年、120周年を迎えました。1905(明治38)年4月に大阪の出入橋から神戸の三宮が開通し、芦屋市内では阪神芦屋駅と打出駅が設けられました。これにより、当時の精道村(現在の芦屋市)は大阪・神戸の郊外住宅地として急速に発展し、農村から住宅地へと変化しました。今回は、芦屋の発展の上で重要な役割を果たした阪神電車の開通と芦屋の近代化について紹介します。 問い合わせ 国際文化推進課☎38-2115 日本初!のインターアーバンと路面電車 阪神電車は、ふたつの点で画期的な鉄道でした。ひとつは、大都市である大阪と神戸を結ぶ日本初のインターアーバン(都市間電気鉄道)という点です。当時、こうした鉄道は欧米で発達していましたが、日本では阪神電車が先駆けでした。 もうひとつは、軌道条例に基づいた「軌道(路面電車)」という名目で開業したことです。当時、私設鉄道法例では、官設鉄道(国鉄・現JR)と並行する私設鉄道をつくることは禁止されていました。そこで阪神電車は、実際は「鉄道」そのものでありながら、路線の一部を道路上に設けるよう工夫して軌道(路面電車)として開業したのです。 芦屋市域で最初の駅 阪神芦屋駅と打出駅 1874(明治7)年には、大阪-神戸間に官設鉄道(国鉄・現JR)が開通しましたが、当時の芦屋市域には駅がありませんでした。1905(明治38)年に阪神電車が開通し、ようやく芦屋市域に芦屋と打出の2つの駅(停留所)が設けられました。これが芦屋市域における最初の駅の誕生です。その後、1913(大正2)年には 国鉄(現JR)芦屋駅が、1920(大正9)年に阪急芦屋川駅が設置されました。 さらに、1927(昭和2)年には阪神国道(現国道2号)が開通し、それとともに国道電車(1974〔昭和49〕年廃止)も運行を開始しました。こうした交通機関の発展によって芦屋市域の利便性が高まりました。 阪神電車が関わった芦屋のふたつのレジャースポット 1905(明治38)年、阪神電車は打出浜に海水浴場を開設しました。翌年には休憩所3カ所や食堂、脱衣場、貸しボート、写真店の出張所、さらに浴後の淡水ポンプ井戸等が整備され、多くの来場者で賑わいました。 しかし、海水浴客が小魚に刺されたり、カキ殻で足を怪我する等のトラブルが増加、これを受けて阪神電車は打出浜での海水浴場経営を打ち切り、1907(明治40)年に海水浴場を西宮の香櫨園浜に移しました。 同じ年、精道村は芦屋川東岸に芦屋遊園地を開園しました。美しい松林を散策できる遊園地は、阪神間の名所として親しまれました。園内には、阪神電車から寄付された休憩所店舗やベンチ・ブランコ・円木運動機・木馬が設置され、多くの人々が憩いの場として訪れました。 人口が激増 健康地「芦屋」 阪神電車は沿線の人口を増やすために、1908(明治41)年、大阪府立医学校(現在の大阪大学医学部)の佐多愛彦校長ら多くの医学者の講演や論述をまとめた『市外居住のすすめ』という本を刊行しました。この本の中で、阪神間は自然が豊かで、空気と水が清涼で、寒暖差が少ない「健康地」として大変恵まれた住環境であることを積極的に紹介しています。そのような中、精道村の人口は、交通機関の発達と土地所有者たちによる土地区画整理事業の実施もあって、大阪・神戸からの移住者により急増しました。阪神電車が開通する直前の明治37(1904)年には人口が3,452人、戸数が639戸であったのが、開通して9年後の大正3(1914)年には、5,298人・1,131戸、20年後の大正14(1925)年には19,257人・3,598戸、30年後の昭和10(1935)年には35,715人・6,979戸へと増加しました。精道村は農村から住宅地へと大きく変貌を遂げたのです。 精道村の発展を支えた阪神電車の電気供給 阪神電車は本来の鉄道経営と併行して、自社の余剰電力を活用して沿線地域の電化を進め、精道村にも1908(明治41)年から電灯の供給を開始しました。これにより、村の人々の暮らしが便利になっただけではなく、近代化に向けた大きな一歩となりました。さらに、1913(大正2)年には阪神水電興業株式会社が水力発電所を芦屋川上流に建設し、その後、発電所の経営は阪神電車に移っています。精道村の電気の普及をみると、1909(明治42)年に87灯だった電灯の数が、10年後の1919(大正8)年には9,666灯と飛躍的に増加しています。 電化の進展は、精道村が農村から住宅地へと転換する大きな役割を果たしましたが、それを担ったのが阪神電車でした。 こうして、1905(明治38)年に阪神電車が開通し、市域に初めて駅ができたことによって大阪や神戸へのアクセスが飛躍的に向上しました。 その後の交通機関の発達を背景に、大阪や神戸の人々が自然豊かで快適な住環境を求めて移り住み、芦屋は優れた住宅地として急速に発展していったのです。 パンフレット『精道村のあゆみ』 ─郊外住宅地・芦屋の幕開け─ 芦屋市の前身である精道村(1889~1940年)の歴史を古写真等を掲載してわかりやすく解説しています。 ■配布場所 国際文化推進課 ※1人1冊まで 市内に今も残る阪神電車に関わる遺構・痕跡 阪神電鉄芦屋川橋梁(きょうりょう) 芦屋川橋梁は、現在、阪神芦屋駅のホームになっていますが、その橋脚は中央部が石積みでその両端をコンクリートで拡張しています。この石積み部分は大正時代以前のものであり、1905(明治38)年の開業時まで遡る可能性があります。 阪神打出駅に残る古いホーム跡 現在の阪神打出駅のホームの下には、石組のホーム跡が残っています。このホーム跡は西半分が自然の玉石で作られており、東半分は切石(間知石)の布積となっています。これは前者が一車両で運行していた開業時に設けられたホームの跡で、後者が、1920(大正9)年の2両編成による連結運転開始に際して拡張されたものと考えられます。