02 特集 語り継ぐ、戦争の記憶 つなぐ、平和な未来へ。 芦屋市では、昭和20(1945)年5月11日に初めて空襲を受け、同年8月5日深夜から6日未明にかけての阪神大空襲では、多くの尊い命が失われ、市民の半数が被害を受けました。 今回は、戦時中にこども時代を芦屋市で過ごした方々に、空襲の恐怖や疎開先での暮らし、戦時下の日常についてお話を伺いました。時が流れ、戦争を直接知る人が少なくなる今だからこそ、その記憶を次の時代へ伝えていくために、当時の暮らしや思いが伝わるエピソードをご紹介します。 問い合わせ 人権・男女共生課☎38-2055 焼夷弾で全焼した我が家 堀内 幸子さん 私が通っていた小学校はもともと白い校舎でしたが、B-29に見つかりやすいからと、途中で目立たないよう緑色に塗り替えられました。 わら草履が配給されたこともありましたが、全員分は用意されず、同級生とじゃんけんで取り合ったのを覚えています。学校には通っていましたが、警戒警報が鳴ると勉強どころではなくなり、家に帰るしかありませんでした。私が空襲を経験したのは、小学3年生、8歳の頃でした。5月の空襲では、爆弾による大きな穴があちこちにできていて、壁には破片が刺さっていました。家の中では押入れの物が爆風で飛び出し、家が倒れなかったのが不思議でした。また、8月の空襲では、防空壕に入った直後、我が家に焼夷弾が無数に落とされ、道路に逃げ出したところ、向かいのドイツ人の方が石造のガレージに入れてくださり命拾いをしました。 夜が明け外に出ると、住み慣れた我が家は跡形もなく焼け落ち、石造の蔵だけが残りました。焼け跡には多数の焼夷弾の筒が残っており、蔵も屋根を突き破った焼夷弾で中は煤(すす)で真っ黒になっていましたが、残った道具は今でもお正月などに使っています。 幼い記憶に残る空襲と終戦の日 渡邉 徹也さん 私が空襲を経験したのは5歳の頃です。幼稚園には1学期までは通えましたが、2学期からは園舎が戦争の倉庫になってしまい、行けなくなりました。家の窓には黒いカーテンが掛けられ、電灯の傘に黒い覆いが付けられていました。光が漏れて爆撃機に見つからないよう、できるだけ明かりを漏らさないようにしていました。8月6日の空襲では、焼夷弾の部品が2階の大屋根に落下し、中央部が一部損傷しました。庭に面した座敷のガラス戸が割れ、廊下にガラスの破片が散乱しました。さらに東西に面した表門と、路を挟んだ倉庫が燃え上がり、火の粉が自宅の表門に飛び火して全焼しました。また、門と中門の間の木材の塀にも延焼しましたが、両親が消し止めました。玄関土間の奥に置かれていた縦型ピアノの根元には、焼夷弾の破片が突き刺さっていました。焼夷弾の破片は、庭に面した座敷にも多く見られました。終戦の日は、親が終戦の放送を聞きに行っていたのを覚えています。前もって、何か大切な放送があるということを、大人たちは知っていたようでした。当時の私は幼かったので、はっきりとした意味まではわかりませんでしたが、あの空気は今でも印象に残っています。 終戦から81年が経ちましたが、現代においても、世界では戦争や紛争が続いています。武力ではなく、言葉の力で解決できないものかと、いつも思っています。 空襲と疎開、焼けかけた家の記憶 丘 博通さん 3歳くらいの頃、各都市での空襲が激しくなったので、親類を頼り母に連れられて長野県へ縁故疎開しました。こどもながらに、自分たちで自発的に疎開するのだということは、なんとなくわかっていたように思います。 母は芦屋に戻ってからも、時々私のようすを見に来てくれましたが、当時の状況では切符を取るだけでも大変だったはずです。疎開先では農家の方から、お金ではなく着物や装飾品と引き換えに、食べ物を分けていただいたこともありました。戦後、芦屋に帰ってくると、焼夷弾で物置が焼け、消火活動をしたため家中が泥んこになっていました。住宅が密集しており、火がつくとみるみる燃え広がってしまうため、井戸から水を汲んで、バケツリレーで消火活動をしたと聞いています。セメントで固めた防火用水も、道沿いに作ってありました。バスタブくらいの大きさで、1メートルほどの高さがあったと思います。防空壕は近所の人と協力して、2~3日くらいかけて掘っていました。体を縮めて入るのが やっとでした。それでも、いざという時のために必要な場所だったのだと思います。焼夷弾が防空壕を突き抜けて、中にいた人たちが全滅したという話も聞き、戦争の恐ろしさを改めて感じました。 戦時中、中学5年間で学んだのは2年半 岸田 正昭さん 私は小学生の時に高槻から芦屋へ引っ越してきました。戦争末期になると授業はまったく行われず、中学2年生から4年生(当時は旧制であったことから、中学校は5年制)の頃は労働に学徒動員されました。豊中では飛行場での草刈り、三木では飛行場建設のために動員されました。その後、塚口の工場ではパイプ部品の製作に動員され、工場勤務の毎日でした。電車は爆弾が落ちて線路が使えず、徒歩での移動になり、国道を通行しているトラックの荷台にぶら下がって移動したこともありました。 私が空襲を経験したのは中学4年生の時でした。警報が鳴ると、家の庭や道に掘っていた防空壕に避難しました。玄関先には防火用の水槽も置いていましたが、焼夷弾による火災は勢いが強く、とても消し止められるものではありませんでした。妊娠中だった母は先に避難していましたが、途中で焼夷弾が降り注ぎ、近くの方に防空壕に入れてもらったと聞いています。自宅と隣の二軒は焼失したので、その後の生活は、焼けずに残った向かいの長屋の一間を借りて、私・弟・父と暮らしていました。母が防空壕に持ち込んでいた一冊のアルバムだけは無事でした。今も大切に保管しています。 戦後、芦屋中学校の校舎は空襲で焼失したため、岩園・打出・宮川、神戸の本山・岡本と、小学校の校舎を借りた仮教室を5回にわたって転々とすることを余儀なくされたのです。 戦争が奪ったもの、そして伝えたいこと 寺島 澄男さん 私が空襲を経験したのは12歳の時でした。当時は大阪に住んでいましたが、祖母のつてを頼って家族の多くが芦屋へ移り、私も芦屋で暮らすようになりました。大阪より安全だと思っていた芦屋でしたが、そこで空襲に遭うことになったのです。幼い頃に母を亡くした私にとって、叔母は母親代わりの存在でした。実のこどものように接してくれたことに、今でも感謝しています。 一方、父と祖父はエレベーター製作の仕事をしていましたが、戦争による鉄の供出で事業を続けられなくなり、倒産しました。戦争は人の命だけでなく、暮らしや仕事までも奪うものだと感じました。空襲の際は、市役所のサイレンが鳴り響く中、防空壕へ駆け込みました。月若公園付近に爆弾が落ちる大きな音、頭上を飛ぶB-29の爆音、そして無数の焼夷弾が火の玉のように降り注ぐ光景は、今も忘れられません。幸い自宅は焼け残りましたが、向かいの一帯は炎に包まれました。家の前にも焼夷弾が2発落ちましたが、向かいの方が自宅が燃えているにもかかわらず、火たたき棒で消火してくださいました。そのおかげで家は守られ、本当に感謝しています。 私は戦争を経験した一人として、その記憶を語り継ぐことが大切だと感じています。戦争は家族を引き裂き、平穏な暮らしを奪います。二度と同じ悲しみを繰り返さないために、次の世代に平和の尊さを伝えていきたいと思っています。 平和を学び、考え、行動する 平和関連事業のご案内 原爆死没者慰霊黙とうのお願い 被爆81年を迎える広島・長崎では、原爆死没者の慰霊と平和祈念の式典が行われ、黙とうがささげられます。皆さんも1分間の黙とうにご協力をお願いします。 【広島原爆忌】 8月6日(木)午前8時15分 【長崎原爆忌】 8月9日(日)午前11時2分 小学生の描いた平和ポスター展 ■日時 ~8月24日(月)まで ■会場 ▶上宮川文化センター3階(宮川小学校・山手小学校・岩園小学校の作品) ▶市民センター3階(入賞者の作品・朝日ケ丘小学校の作品) ▶シンコースポーツ体育館・青少年センター2階(精道小学校・打出浜小学校・浜風小学 校の作品) たゆまぬ平和への歩み展 ■日時 ~8月31日(月)まで  ※最終日のみ午後4時まで ■会場 市役所北館1階展示コーナー 「あの日と、今をつなぐ。」 平和の常設展示 ■会場 市役所南館地下1階ロビー ■内容 平和の常設展示を開始しました。市民の方から寄贈いただいた戦時下の生活を物語る貴重な品々や、資料を展示しています。 戦時中の体験記を募集しています 戦争の記憶を風化させず、平和の大切さを次の世代へとつないでいくため、戦時中の体験記(戦時中の生活・空襲による被災体験・学童疎開・親や祖父母から聞いた話など)を募集しています。 戦争に関する記録集を発行しています ■芦屋市平和記録集「たゆまぬ平和への歩み」 ■芦屋市戦争体験記録集「未来へつなごう戦争の記憶」 ■芦屋市平和記録集「語り継ごう平和への想い」 ※人権・男女共生課(市役所分庁舎1階)で配布しています。ぜひご覧ください。ホームページからもダウンロード可