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更新日:2023年9月6日
「あしや」という名は、古代には神戸市東部から芦屋市・西宮市にかけての六甲山南麓地域の総称であったといわれています。この地は、自然環境が穏やかで居住条件が優れていたために早くから開け、縄文時代の遺跡をはじめ、弥生時代の高地性集落である会下山遺跡(兵庫県史跡第1号(昭和35年)三条町)など、古代人の足跡が市内に散在し、阿保親王塚(翠ヶ丘町)や業平別荘跡など史跡・伝承にも恵まれた歴史性豊かな地です。
昭和15年、全国173番目の市として精道村から一躍、芦屋市が誕生した発展過程は、純農村の住宅都市への歩みの歴史でもあります。明治38年阪神電鉄本線の開通に伴う芦屋・打出2駅の設置をはじめ、大正2年には国鉄東海道線芦屋駅が設置され、大阪・神戸の郊外として優れた立地と環境が注目されるにつれ、芦屋川扇状地を中心とした別荘地・住宅地化が始まりました。
さらに、大正9年の阪急電鉄神戸線の開通による芦屋川停留所の設置は、住宅地の山手方面への広がりを促しました。昭和初期には、広壮邸宅地としての「六麓荘」開発が行われ、「高級住宅地・芦屋」のイメージを定着させました。また、阪神国道の開通など都市としての骨格づくりも進みました。
その後、阪神大水害(昭和13年)や空襲(昭和20年)による被害を受けながらも、「芦屋国際文化住宅都市建設法」(昭和26年)が公布され、国際性と文化性あふれる住宅都市の形成という目標を明らかにしました。
昭和30年代からは、芦有道路と奥山の開発、下水道事業、区画整備事業、国道43号の開通など都市基盤の整備が進められ、昭和40年代に入ってからは着実な人口増加を続け、山麓部から南はほとんど住宅で埋めつくされました。
昭和50年代からは、海浜埋め立てによる芦屋浜シーサイドタウンの建設、JR芦屋駅周辺の再開発事業などによって、新しい「あしや」の姿が生まれつつありました。
しかし、平成7年1月17日早暁、阪神・淡路地区を襲った直下型大地震は、わずか10数秒にして、多くの芦屋市民の生命と財産を奪い、営々として築いてきた緑豊かな国際文化住宅都市芦屋を一瞬にして崩壊させ、がれきの町にしてしまいました。
震災後は、復旧・復興事業を最優先課題に取り組みました。その多大な費用負担や景気低迷による税収入減から市財政は極端に悪化、財政再建団体への転落が懸念されましたが、平成15年から徹底した行財政改革を断行し、財政の危機的状況は回避されました。
現在は「確実な財政健全化に向けた行財政改革の継続」「快適で住み良いまち・芦屋の創造」「子どもたちが心豊かに健やかに成長するための環境整備」の基本方針のもと、「世界一美しく、清潔で安全なまち芦屋」の実現を目指しています。
昭和15年11月10日 |
市制施行 |
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昭和26年3月3日法律第8号 |
芦屋国際文化住宅都市建設法 |
昭和35年8月1日 |
市旗制定 |
昭和37年3月31日 |
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昭和39年5月3日 |
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昭和42年11月3日 |
市民文化賞制定 |
昭和45年11月10日 |
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昭和45年11月10日 |
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昭和56年4月1日 |
名誉市民条例制定 |
昭和60年10月15日決議 |
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平成7年7月 |
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平成13年3月 |
第3次芦屋市総合計画策定 |
平成16年1月1日 |
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平成23年3月 |
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平成28年3月 | 芦屋市創生総合戦略策定 |
令和3年9月 | 第5次芦屋市総合計画・第2期芦屋市創生総合戦略策定 |
この市章は、大正11年3月31日、懸賞募集によって制定された精道村章をそのまま引き継いだものです。その由来は、「精道村は、山を負い海に臨む風光明媚の地にして、芦屋・打出・三条・津知の旧4カ村から成り、円満、平和にして隆々として発展の勢あり、すなわち山、海、四、円平、旭を図示す」とされています。
市木 |
市花 |
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市木 クロマツ 松の景観をなくして芦屋を語ることはできません。なかでも形成がすぐれ、害虫に侵食されにくいクロマツを市木に選定しました。 |
市花 コバノミツバツツジ 背山で松とともに多生しているのがつつじ。とくにコバノミツバツツジが多く、また美しいところから市花に選定しました。 |
市制30周年記念事業の1つとして、制定したものです。昭和42年に行なった世論調査でのアンケートの結果をもとに市民憲章“緑と花の専門部会”に諮問、同専門部会の意見を取り入れました。