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更新日:2021年4月6日

ジョー・クレーン

日本ゴルフ界をリードした英国人

経歴

ジョー・クレーン横浜生まれで神戸育ち,兄弟で芦屋市松浜町に住み,後半生はゴルフをすると共にコースの設計やルール解釈に生涯を捧げた。戦後は大阪で貿易商社を経営し,"Thank you"の代わりに「おおきに!」も軽く口を突いて出た。こんな英国人スポーツマンがいた。Joseph Ernest Crane(ジョセフ・アーネスト・クレーン),通称ジョーが,その人だった。

 

 

※写真は,晩年のクレーン兄弟:ジョー(左),兄ハリー(右)於:鳴尾GC(神戸市文書館蔵

ゴルフ先進地

日本のゴルフ発祥地は六甲山だった。神戸の茶貿易商A.Hグルームが,1901(㍾34)年に造った4ホールのプライベート・コースが,それだった。2年後,これを拡充・組織化して神戸ゴルフ倶楽部(神戸GC)が誕生した。
だが,冬でもプレーがしたいとW.J.ロビンソン(神戸GC会員)が,1904(㍾37)年,海沿いの横屋ゴルフ・アソシエーション(現魚崎中学付近)を造った。この2番目の横屋GAが移転し,鳴尾ゴルフ・アソシエーション(鳴尾GA)となり,初めて日本人が30名あまり入会。ここが「関西のゴルファー揺籃地」となった。ここ鳴尾GAは借地で,所有者・鈴木商店(現,双日)から返却の声がかかり解散する。その後1920年初夏,鈴木商店や外国人のゴルフ好きが,この跡地を利用して立ち上げたのが,鳴尾ゴルフ倶楽部(鳴尾GC)だった。

八面六臂の活躍

1923(㍽12)年,鳴尾GCにとって初の大会・クラブ選手権競技会を開催。ジョーは決勝で敗れ準優勝に終わっている。また,神戸GCとの対抗戦では,兄(次兄)ボブと組んで鳴尾チームの勝利(8-2)に貢献している。
翌年には18ホール・フルコースが完成。ジョーと西村貫一(神戸の老舗旅館主)とで設計し,毎日工事に立ち会ってのことだった。
また,クラブの委員に選ばれたジョーは,翌年の総会に向けて本場スコットランドのセント・アンドリュース・クラブをモデルに定款作りも担当した。
さらには,臨時総会でジョー,エブラハム(ジョーの親友)等4人が,クラブハウス建設委員に選出され,1925(㍽14)年クラブハウスを完成させた。緑のゴルフコースと白いクラブハウスがセットになった風景は,近隣住民に「いきなり外国がやって来た」ような驚きを与えたという。

戦争への足音

だが,1928(㍼3)年の暮になって状況は一変する。当時,キャプテンだった兄(長兄)ハリー宛に内容証明付きの郵便物が届き,「半年後に南側9ホール部分の土地を返還されたし」との文面だった。2年後の年の暮,川西航空機は鳴尾GCの南側へ本社と工場を移転。
1931(㍼6)年の秋,関東軍が満州事変を起こす。遠い異国の話と思っていたジョーたちも,間もなく「15年戦争」の足音を聞くようになる。
残りの9ホールも盤石ではなかった。鳴尾GCの土地所有権は,鈴木商店から2転3転,1939(㍼14)年6月末,ついに「本年10月末で明渡し」を求められた。川西航空機工場のさらなる拡張のためだった。ついに来るものが来てしまった。創立以来19年6ヶ月にわたる様々な思い出が去就する中,9月末,最後のコンペ「サヨナラ競技会」を開催。コンペの後,総勢70名で記念撮影を行った。だが,記念撮影に間に合わなかった人々もいた。それは,名残りを惜しみ真っ暗になるまでプレーを続けたからだった。

鳴尾から猪名川へ

1929(㍼4)年の始め,新しいゴルフコースを求め,用地探しが始まった。ジョーの親友エブラハムは毎週末,愛車オースチンにジョーたちを乗せ候補地へ向か
った。姫路や三木,三田も検分したが,神戸はともかく大阪からは遠過ぎた。北摂方面に変更し,伊丹,川西池田,能勢も見て廻った。結局,能勢電鉄・畦野(うねの)駅から西約1㎞の辺りに決定。川辺郡東谷村だった。交通機関は,梅田から阪急宝塚線・川西能勢口駅で能勢電鉄に乗換え,9つ目の山下駅。駅から徒歩15分。当時,大阪から1時間40分,神戸から2時間。それぞれ,何とか満足の行く場所だった。大阪や神戸の都心から,この時間・距離で総面積およそ15万坪(495,000㎡)を買収した。

コースの設計

ジョーは,自然の地形を「あるがまま」に受容れたコース造リを行うことを自負している。すなわち,土量移動量の少なさが「あるがまま」となる。ジョーが設計した鳴尾GCは「世界のコース,トップ100選」に他2コースと共に選出されている。戦後だが,1967(㍼42)年Big3(A.パーマー,G.プレーヤー,J.ニクラウス)が,エキジビションマッチを行ったのもその証拠である。

ゴルフ連盟の創設

1924(㍽13)年,日本ゴルフ協会が結成される。この時の発起人会には,関西から舞子,甲南,鳴尾(西村貫一),そして神戸の計4クラブが出席。関東からは3クラブ。関西は歴史や伝統,クラブ数からいっても関東以上の発言力を持っていた。その2年後の1926(㍽15)年10月,関西ゴルフ連盟が誕生する。この時ジョーが骨を折っている。案内状の送付,会場(神戸オリエンタル・ホテル)の手配,定款や細則の草案(英文)などの準備。そして,代表者会議には,神戸,宝塚,舞子,甲南,茨木,京都,鳴尾の各クラブが揃った。チェアマン:南郷三郎,名誉書記:ジョー,名誉会計:広岡久右衛門らが選ばれ関西連盟を発足させた。これは日本ゴルフ協会に次いで2番目の統括組織だった。ちなみに関東は8年も遅れた。

 ルール解釈

国内初期のルールブック,『ゴルフの規則』(11㎝×8㎝)には,翻訳者として「J.クレーン,西村貫一 共訳」とあり,開くと「日本ゴルフの開祖A.H.グルーム並に日本第二番目のゴルフ場の開祖W.J.ロビンソン両氏の霊にこの書を捧げます。1931年9月 訳者」と記されている。ゴルフの規則は,英国の「ルールブック」を翻訳するとともに解釈する必要がある。このような役割は,ジョーにとって最も面目躍如であった。
戦後,ジョーは日本ゴルフ協会・規則委員としてルール改訂に参画し,80歳過ぎまで委員を続けた。様々な委員会があるが,規則委員会の会合が最も長時間で知られていた。ジョーは欠かさず上京し,出席していた。それを彼は,「Noblesse' obligeノブレス・オブリージュ」(上位者の社会的義務)を果たしただけと言う。

敗戦と復興

鳴尾・浜コースは,1939(㍼14)年10月末日を以って軍需工場・川西航空機へ明け渡された。欧州では,この2ヶ月前の9月1日,ドイツ軍が突如ポーランドに侵攻,第2次世界大戦が始まっている。
日本国内では,英米語,そのカタカナ使用も厳禁となる。1943(㍼18)年9月,「ゴルフ=打球」とされ,鳴尾GCも「猪名川打球会」と改めさせられた。そして,多くの外国人が施設に抑留される中,ジョー等は免れたが,特高(特別高等警察)や憲兵の尾行は常時だった。
1945(㍼20)年8月15日正午,玉音放送で敗戦が告げられ,日本国民に大きな虚脱感を与えた。一方,ジョーたちは早々と鳴尾GCの幹部を訪ね,コースの復旧を呼びかけた。そして,ジョーら兄弟は,何度となくGHQ神戸支部(神港ビル)に出向き,一日も早いコースの返還を働きかけた。こうして敗戦の日から数えて僅か3ヶ月半,コースは鳴尾GCに返還された。これは,神戸ローンテニス・クラブ(1949),神戸レガッタ&アスレチック倶楽部(1952)の返還と比べても非常に早く,クレーン兄弟の尽力を物語っている。
まだまだ食うや食わずの時代1947(㍼22)年4月,たった3ホールだが,復旧させ3ホールを3ラウンド廻りみんなで喜び合った。1949(㍼24)年には18ホールを再開。全国でも1番早く復興したのではなかろうか。

コース設計家ジョー

ジョーが設計したゴルフ場が全国に26ヶ所点在する。一人の設計者が創設したコース数では,日本国内でも5指に入るほど高名である。その証拠に鳴尾GCが「世界のゴルフ場100選」に入っ
ている。これら3,4コースは戦前の設計であるが,多くは戦後の高度成長期以降である。ゴルフ・ブームが到来し,コース設計を依頼されたジョーは,全国各地に出かけるようになる。それは60歳半ばを過ぎてからのことだった。
「チキンラーメン」で知られる日清食品の創業者・安藤百福が,ジョーの設計思想に惚れ込みコース設計を依頼。ジョーは多忙さと設計条件の厳しさゆえ難色を示したが,最後には安藤の熱意に絆(ほだ)されて承諾。人情の機微に厚いジョーの人柄が窺える。
元気だったジョーも80歳を越えるとハーフラウンド廻るのが精々で,時には「疲れた」と途中から車でクラブハウスへ戻ることもあった。
クレーン兄弟の末弟Joseph Ernest Crane(ジョセフ・アーネスト・クレーン)は,1980(㍼55)年3月30日87歳で天国に召された。葬儀は4月1日,神戸市中央区の神戸ユニオン教会に於いて行われた。ガンブリ牧師の司式によって営まれ,次の名士たちがジョーを語った。すなわち,関西国際委員会議長P.A.カンパネラ,日本ゴルフ協会会長・乾 豊彦,西宮高原GC会長・伊藤恭一,鳴尾GCキャプテン・植田成一郎。葬儀後,ジョーはクレーン家の人々が眠る神戸修法ヶ原,外国人墓地11区8・9番に葬られた。墓碑には「Joseph Ernest Crane 1892.5.27~1980.3.30 Time has touched him gently and He sleeps.」と刻まれている。

(文責:NPO神戸居留地研究会理事・髙木應光)

 

ジョー・クレーン『日本ゴルフ界をリードした英国人』(PDF:490KB)(別ウィンドウが開きます)

 

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