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更新日:2023年3月15日

芦屋ラグビースクール

わが町ラガーマンたちの「母校」

芦屋ラグビースクール1

ラグビーを通じて、「子ども達の知力や体力、協調性をもたらす健全な精神を育成する」を目的に、1978(昭和53)年6月に設立。現在、幼稚園から中学生まで400名超の子ども達がラグビーを楽しむ、日本を代表するラグビースクールとなっている。

芦屋ラグビースクールの誕生

芦屋ラグビースクール21977(昭和52)年に設立された芦屋ラグビークラブのメンバーが中心となり、若いラガーマン育成・強化のため、さらには、地域活動として、青少年の幅広い活動を目的として、少年ラグビースクールの開校を決め、1978(昭和53)年6月、芦屋市立体育館・青少年センターで芦屋ラグビースクールが誕生した。
設立時のスクール生は27名。指導は芦屋ラグビークラブのメンバーが行なった。主な活動場所は精道小学校であったが、グラウンドの確保には苦労した。1980(昭和55)年に芦屋中央公園芝生広場が完成し、活動場所として利用できるようになった。しかし、月1、2回の利用であったため、グラウンドの確保にはまだまだ苦労した。当時のスクールコーチの1人がPTA等をしていたこともあり、学校と交渉して、なんとか精道小学校、精道中学校、山手中学校、市立芦屋高校を転々とし活動することができた。しかし、それでもグラウンドが確保できない時は、魚崎(神戸市東灘区)の瀬戸公園まで行って練習したこともあった。

設立当初からの近隣スクールとの交流

芦屋ラグビースクール3芦屋ラグビースクール設立以前に、すでに近隣市には兵庫県ラグビースクール(神戸)、甲子園チビッ子ラガーズ、西宮ラグビースクール、伊丹ラグビースクールがあった。1980(昭和55)年11月に西宮ラグビースクール、伊丹ラグビースクールと初の親善試合を行ない、何とかまともな試合になった。翌年にはスクール生が100名を超え、「第1回三市(芦屋、伊丹、西宮)親善試合」が行われ、徐々に他のスクールとの交流が広がっていった。
さらに、1982(昭和57)年、芦屋中央公園芝生広場が完成したことをきっかけに、他スクールとの交流がより活発となった。1983(昭和58)年3月には「第1回阪神地区ラグビースクール大会」、10月には「第1回兵庫県ラグビースクール大会」が芦屋中央公園芝生広場で開催された。県大会への参加スクールは6校(明石、芦屋、伊丹、甲子園、宝塚、西宮)で、芦屋ラグビースクールは4年生が見事優勝を果たした。県大会は以降、毎年開催され、今なおスクール生の大きな目標の一つとなっている。

夏合宿

芦屋ラグビースクール4スクール生の子ども達にとって、大会以上に大きな思い出となるのは夏合宿である。第1回目は1980(昭和55)年8月、芦屋村(芦屋市立青少年野外活動センター。震災の影響により廃止。)で1泊のキャンプを行なった。キャンプ場の広場でボール遊び等を行ない、夜はキャンプファイヤー等を楽しんだ。
翌年からは和田山での合宿となり、グラウンドも確保された。しかし、宿泊施設はグラウンド近くの廃寺で、子ども達はタオルケットを折りたたんだ物を寝袋にして、お堂の中で宿泊し、コーチ陣は近くの広場にテントを張って宿泊していた。当然風呂は無く、3つあった汲み取り式トイレの水道にホースを繋ぎ、水浴びするスタイルというワイルドな合宿だったという。一番の楽しみはお母さんたちの作ってくれる夕食で、1日目は「肉じゃが」、2日目は「カレーライス」。このメニューは現在の合宿でも続く伝統のメニューとなっている。
スクール生の増加に伴い、1987(昭和62)年に合宿地が広島県総領町に移った。施設は地元の小学校で、練習は校庭、宿泊は体育館、風呂はプールに浸かり汗と泥を落とすというスタイル。夕食は給食業者への委託となったが、食べ残す子どもが多く、食事面で課題を残した。その後、更なるスクール生の増加で、1989(平成元)年から2000(平成12)年までは丹波少年自然の家での合宿となり、夕食もお母さんたちの作るメニューに戻った。2001(平成13)年から兎和野高原野外教育センターに移り、現在も当地で夏合宿を行っている。

スクール生の急増

1985(昭和60)年、それまでは100名ほどだったスクール生が300名近くまで一気に急増した。きっかけは、当時大流行したラグビーを題材としたドラマ「スクールウォーズ」だった。その増え方は凄まじかった。
この年、もう一つ大きな出来事があった。第1回芦屋ラグビーカーニバルの開催である。芦屋中央公園芝生広場で子どもから大人まで、すべての世代のチームを招待し交流試合を行なった。以降、毎年開催され、県内・外のチームを招待し交流試合を行なう「ラグビーの祭典」となっている。ドラマの影響も落ち着き、少しずつスクール生も減少していったが、1989(平成元)年にはとうとう300名を超え、スクール生320名、コーチ60名の大所帯となった。

阪神・淡路大震災

1995(平成7)年の阪神・淡路大震災により芦屋ラグビースクールも甚大な影響を受けた。コーチ1名、スクール生2名、関係者数名が犠牲となり、スクール生、コーチの数も激減した。ラグビーどころではない状況であったが、他のスクールからの合同練習の誘いを受け、市内の施設を借りる等して、間もなく活動を再開した。
同年3月には、関係者全員の努力と、尼崎ラグビースクールの好意を受け、無事フライアップセレモニーを行なうことができた。その後も4月には入校式、8月には夏合宿、11月の県大会出場と第11回芦屋ラグビーカーニバルの開催と活動を止めることは無かった。

芦屋市のラグビー環境

1978(昭和53)年の設立以来、活動場所となるグラウンドの確保に苦労していた。しかし、2004(平成16)年に芦屋市総合公園の陸上競技場(天然芝)が完成し、芦屋中央公園と芦屋市総合公園が利用できるようになったことで、グラウンドが確保でき、非常に恵まれたラグビー環境が整備された。また、ハード面の改善だけでなく、スクールのホームページの刷新、積極的な情報発信や月一回の体験ラグビーの開催等、運営面の努力や充実によって芦屋市の少年ラグビーはとても活発になっている。

2度の日本一

芦屋ラグビースクール5芦屋市のグラウンド環境の充実、スクール運営面の充実。ハード面とソフト面が噛み合い、そして現場のコーチの熱心な指導でスクール生の競技力も伸びていった。そして、「太陽生命カップ2013第4回全国中学生ラグビーフットボール大会」において、中学部が初出場初優勝を遂げ芦屋ラグビースクール初の日本一を達成した。その後も、第7回大会、第10回大会、第12回大会(新型コロナウイルス感染症拡大の影響で大会中止)と全国大会に出場し、2022(㋿4)年の第13回大会で見事2度目の日本一に輝いた。実に10年間で5度の出場と2度の優勝を収めており、スクールの規模だけでなく、実績においても日本を代表するラグビースクールとなっている。
現在、初優勝時のメンバー5名を含むOB7名がリーグワン等、国内トップレベルのリーグで活躍している。また、オールブラックスを目指しニュージーランドで活躍するOBもいる。これからも活躍するOBがどんどん出てくるだろう。近い将来ワールドカップで躍動する芦屋ラグビースクール出身選手の姿を是非見たい。


(文責:市民スポーツライター(NPO法人芦屋ラグビーソサイエティー理事) 村上 雄紀)


芦屋ラグビースクール『わが町ラガーマンたちの「母校」』(PDF:537KB)(別ウィンドウが開きます)

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