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更新日:2021年6月24日

賀川浩(かがわひろし)

2014年FIFA会長賞を受けた最年長サッカージャーナリスト

経歴

賀川サッカージャーナリスト

特攻隊として終わるはずだった人生。小学生で始めたサッカーから一度は離れようともした。だが、その魅力を文章にして伝える喜びを知って早や60数年が過ぎ、オリンピック銅メダル、Jリーグ開幕、日韓ワールドカップ等日本サッカーの歩みを見続けた90歳のジャーナリストは、本気で2018(平成30)年ロシアワールドカップを目指している。2011(平成23)年に芦屋市民文化賞受賞。

国際サッカー連盟会長賞を受賞

FIFAPresidentMr.Blatter,ladiesandgentlemen.IamveryproudtobeabletoattendthiswonderfulceremonyfortheFIFABallond’Or.(ブラッターFIFA会長、ご列席の皆さま。FIFAバロンドールという、素晴らしいセレモニーに出席できて光栄です)。2015(平成27)年1月12日、スイス・チューリヒ、FIFA(国際サッカー連盟)コングレスハウスの壇上で、90歳の小柄なジャーナリスト賀川浩は、めいりょうな発音の英語で受賞スピーチを始めた。世界のメッシ、ロナウドらは笑顔で耳を傾けていた。前年12月、賀川にブラッター会長からメールが届いた。そこには、あなたにバロンドール(世界年間最優秀選手賞)表彰式でFIFA会長賞を贈りたい、とあった。1974(昭和49)年から2006(平成18)年まで連続9回のワールドカップ取材を続けた賀川だったが、2010(平成22)年大会は体調が整わず断念した。それから4年、古い友人のセルジオ越後から母国ブラジルでの大会だから是非ご一緒にと誘われ、賀川には10度目の取材に旅立った。大会最年長記者だと知ったメディアから取材を受け、FIFAのホームページ(fifa.com)で紹介された。賀川はこの経緯を知った旧知のブラッター会長が授賞を決めたのではないかと考えている。

一度は死を覚悟した

賀川は1924(大正13)年12月29日神戸市生まれ。雲中小5年でサッカーを始め、強豪旧制神戸一中(現県立神戸高校)では練習に顔を見せる日本代表選手である先輩たちのハイレベルのプレーを見たことは貴重な経験だった。1942(昭和17)年、賀川は神戸商業大学予科(現神戸大学)へ進むが、前年、日本は太平洋戦争に突入していた。開戦当初はまだボールを蹴れたが、その後徐々に戦況は悪化しスポーツの全国大会は中止、やがて学生の徴兵猶予制度も廃止され、賀川は1944(昭和19)年に陸軍特別操縦見習士官、つまり戦闘機乗りへの道を選んだ。軍隊生活でサッカー選手としての成長は阻まれたが、その後の人生にとっては貴重な経験を積めた。基礎教育では素晴らしい教官たちに出会い、ひとつ間違えば死に直面する飛行訓練では操縦技術を突き詰めることに面白さを感じた。これは賀川がサッカー技術の追求へ眼を研ぎ澄ましていくことにもつながっている。1945(昭和20)年2月に朝鮮の海州市(現北朝鮮)郊外へと転属となった賀川は、そこでと号隊(特攻隊)に入るが、出撃の日が来る前に終戦を迎えることになった。死ぬと決めていた賀川は途方にくれた。その後南朝鮮(現韓国)への移動を命じられ、小学校の校庭で少年と雨の中ボールを蹴り合った。久しぶりのボールの感触が内地へ帰りたいと思わせた。そして、連絡船で日本へ。10月に家族の疎開先京都へたどりついた。その後、人生を考え直したいと予科を退学、サッカーも止めようと決意した賀川だったが、サッカー界が再開から復興へと動く中、賀川も様々な機会にプレーし、指導を続けていた。京都での7年間、自分が何をもって世に向かうのかを考える彷徨期となった。

日本サッカーの成長とともに

1952(昭和27)年、球技記者を求めていた産経新聞の運動部記者となった。アジア大会やスウェーデンクラブの来日時の寄稿で書くことに興味を持ち、先輩の大谷四郎(元朝日新聞)の記事や、後輩の岩谷俊夫の共同通信社入社が刺激になっていた。当時の運動部長は木村象雷。厳しく文章を吟味され、平易な記事の大切さや新聞の作り方と理念を学び、読ませ見せる技術で大きな影響を受けた。1955(昭和30)年にはサンケイスポーツが創刊、さらに前年、大阪クラブ会報キックオフが発刊。大谷編集長の下、岩谷と参画した賀川は欧州の指導書の翻訳等を担当し、会報は愛好者に反響を得て、多忙な日々が続いた。1959(昭和34)年には東京へ転勤。すでに5年後の東京オリンピック開催が決定していた。ローマオリンピック予選敗退の日本サッカーは、東京大会への強化策として西ドイツ人コーチ、デットマール・クラマー氏を招聘。10月の初来日から日本代表の指導にとどまらず、日本サッカー界全体に多大な影響を与えることになる名指導者との交流が始まり、賀川自身多くのことを学んだ。1961(昭和36)年、賀川は京都・山城高1年の釜本邦茂と出会う。その後、東京オリンピックに出場、西ドイツ単身留学で急成長した釜本氏は、メキシコ大会では堅守速攻戦術の一翼を担い,銅メダル獲得という偉業を達成し、自身も得点王となった。不世出のストライカーの成長期、病に伏した時期から、円熟期、そして現役引退へ。見続けたきた賀川は今でも釜本氏について語り始めると時が立つのを忘れてしまう。

ワールドカップの旅

1970(昭和45)年メキシコワールドカップを取材しようと準備万端の賀川だったが、会社からノー。そのため初取材は49歳、1974(昭和49)年西ドイツ大会となり、雑誌サッカーマガジンにワールドカップの旅の連載を始めた。書き出しにワールドカップを見て記事を書くという全く夢のような幸福な日々とある。この旅シリーズは、欧州、南米各選手権等でも続いた。実は筆者も1974(昭和49)年当時からの賀川ファンなのだが、旅シリーズは文章の端々にまでサッカー愛が溢れ、様々な視点での試合評、世界と日本との比較などファンには興味深く、豊富な経験と知識から地理、歴史、風習、食にまで言及し、現地の人々と触れ合う喜びが伝わってきた。ワールドカップ観戦など難しく、日本の出場も想像できない時代に、読み手は賀川から夢を与えてもらったものだ。

兵庫サッカーの復活に寄与

1965(昭和40)年、兵庫サッカー友の会主催による神戸少年サッカースクールが開校した。賀川が少年へのサッカー普及の必要性を説いたことに応えて神戸の医師、加藤正信のリーダーシップで実現した。これがメディアによって伝えられると、各地に学校単位ではない少年団という形で広がり、大会やリーグ戦が行われることになった。さらに1969年には専用球技場建設運動が成功し、神戸市御崎に1万5千人収容ナイター照明付きサッカー場が完成した(現ノエビアスタジアムの前身)。そして、兵庫サッカー王国復活にはプロコーチが必要で、そのためには財政が確かな法人化だと、翌年12月に友の会は初の法人格を持ったスポーツクラブ一般社団法人神戸フットボールクラブ(KFC)へ発展する。特徴は会員を12歳以下、15歳以下、18歳以下、19歳以上、40歳以上と年齢別に分けそれぞれチームを作ったことだ。現在、日本サッカー協会は年齢別選手登録だが、当時は学生、社会人など社会的身分で区分された。サッカーが他競技に先んじたのはKFCが先鞭をつけたおかげだ。すべては友の会発足時の夢を実現させようと、加藤正信が牽引し、賀川らが後押しした結果だった。

阪神・淡路大震災と賀川サッカー文庫

1990(平成2)年にフリーランス記者となった賀川は1995(平成7)年1月17日に発生した未曾有の大震災で被災、集めた資料を整理し、著作等をまとめるため借りた芦屋の資料室兼仕事場は倒壊し取り壊されることになった。火災は出ず資料等は無事だったが、移すスペースが別の住居にはなく、約400冊のサッカーマガジン等は諦め、持ち出せたのは3分の2程度。図書・資料に囲まれて仲間とサッカーを語り合うサロンを持ちたいという望みは潰えたが、その後はインターネットで著作を公開する賀川サッカーライブラリーやブログ賀川浩の片言隻句などを開設。20年後の2014(平成26)年4月、神戸市立中央図書館の一室にボランティアの仲間の精力的なサポートで神戸賀川サッカー文庫が開設された。賀川は他に用件がなければ、火・木・土曜に出勤し、訪問者とのサッカートークを楽しんでいる。サッカー好きは是非一度お訪ねを。

(文責:フリーランスサッカーライター貞永晃二)
賀川浩(かがわひろし)2014年FIFA会長賞を受けた最年長サッカージャーナリスト(PDF:307KB)(別ウィンドウが開きます)

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