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更新日:2023年1月12日

清水善造(しみず・ぜんぞう)

教科書にも載った「やわらかなボール」

経歴

清水 善造写真芦屋市霊園に有名なテニス選手が眠っている。今から100年前、ウィンブルドン(全英選手権)やデビスカップ(デビス杯)で大活躍した人物、その名は清水善造。現役引退後は、三井生命・神戸支店長などを勤めるとともに、後輩の指導に当たった。1956(昭和31)年・兵庫国体テニス会場の芦屋誘致にも尽力。また、芦屋国際ローンテニスクラブの副会長を務め、共に活躍した熊谷一弥とKS杯を寄贈し、若手の育成に務め多くのデビス杯選手も育った。

 

 

※写真は、チルデン・セーターを着た試合中の清水(群馬県立高崎高校:所蔵)

一番人気のテニス

関西のテニスの先駆けは、欧米人たちの神戸ローンテニス・クラブ(KLTC)や神戸レガッタ&アスレチック倶楽部(KR&AC)だった。KLTCのコートは現在の神戸市役所に位置し、南北4面のテニスコートを所有、1885(明治18)年ころから活動を始めていた。
一方、日本人のテニス(硬式)は、海外での活躍から火が付いた。日清・日露戦争に勝利し、スポーツでも日本選手が国際試合で活躍する。1920(大正9)年ウィンブルドン(全英選手権)での清水善造の挑戦者決定戦・決勝での活躍。そして、同年のアントワープ五輪テニス・熊谷一弥(慶応)のシングルス銀、及び柏尾誠一郎(北野中学・東京高商)と組んだダブルスでの銀メダルは、日本人初の快挙だった。
「阪神間モダニズム」の時代(明治後半~昭和初期)、さまざまなスポーツが阪神間でプレーされるようになったが、中でもテニスは一番の人気スポーツだった。芦屋ではテニスコートを設ける邸宅も多く、25ヶ所29面ものテニスコートが確認される(1932年当時)。それは、ステイタス・シンボルでもあった。

生い立ち

清水善造は1891(明治24)年3月、群馬県西群馬郡箕輪村(現,高崎市)に清水孝次郎・デンの長男として生を受ける。小学校の成績は優秀で、先生から中学への進学を進められ高崎中学(現,高崎高校)へ。中学での成績も抜群で、同村の資産家からの援助もあって東京高等商業学校(現,一橋大学)に進学。ビジネス世界での活躍を夢見て勉学に励むとともにテニスにも精を出し、やがて主将にも抜擢された。1912(大正元)年、卒業後は三井物産に入社。

基礎体力

清水が初めてテニスに出会ったのは高崎中学時代で、それは軟式テニス(現,ソフトテニス)だった。当時、日本にはテニス(硬式)ボールを造る技術がなく(国産化は昭和10年ころ)、輸入品は超高額で生徒たちの手に負えるものではなかった。テニスの教材化を目指していた東京高等師範学校は、1890(明治23)年、三田土ゴム会社へボール製作を依頼、出来上がったのが今日で言う軟式ボール。こうして、我が国独特の「軟式テニス」が誕生した。
自宅から高崎中学へ往復20km。清水は、この道を5年間歩き・走った。これが、試合でコートを走り回ってボールを拾う清水の原点となった。「テニスは足腰の強さに尽きる。足が満たされれば満足、足りなければ不足。これが足とテニスの哲学である」(上毛新聞2008年8月17日)と。もう一つの武器は手首の強さである。それは草刈りだった。乳牛の餌となる草を刈るのが清水の日課。日々の草刈り作業で、清水の手首はだれにも負けないほど強靭になり、それがテニスのグリップに大いに役立った。
東京高等商業学校テニス部に入った清水は、決して上手くはなかった。けれども懸命に壁打ちに徹した。やがて、周りが驚くほど強くなり信頼を得てキャプテンにも就いた。卒業後は三井物産に入社、早速インド・カルカッタ(現,コルカタ)へ赴任。ここで硬式テニスを覚え、相変わらずテニスの壁打ちを日課とした。その努力は、インド・ベンガル州選手権大会5連覇(1915~19)となって現れた。また、商用で訪れたブエノスアイレス(アルゼンチン)での南米選手権大会にも優勝している。

ウィンブルドン、デビス杯での活躍

1920(大正9)年6月、ロンドン郊外ウィンブルドン・センターコートで小柄な日本人が、観客から最高の賛辞を受けた。世界レベルの選手128人が、オールカマーズ方式(参加選手がトーナメント方式で戦い、その優勝者が前年度優勝者と争ってチャンピオンを決定する方式。)で争い、清水は決勝に進出。勝てば前年度優勝者への挑戦権が得られるのだが、相手は190cm近い大男W.チルデン、清水との身長差なんと25cm。清水は第1、第2セット共に4-6で落とし、迎えた第3セット、互角の戦いが続く中チルデンが足を滑らせ転倒、そのとき清水は弧を描くようなやわらかなボールを返した。体勢を立て直したチルデンの返球に、清水のラケットは届かなかった。「Hey you look!」チルデンが観客席を指した。観客全員がstanding ovation(スタンディング・オベーション)をしていたのだ。その後、デュースが何度も続き結局、清水は11-13で敗れた。コートを引き揚げる清水に、再びスタンディング・オベーションが起こり、いつ果てるとも知れないほど長時間続いた。翌日のロンドン・タイムズ紙は、「清水はよく戦った。そして、スポーツマンシップが、どんなものであるかを示してくれた…」と書いた。
翌年の9月、国別対抗戦・デビス杯オールカマーズ決勝、豪州を4-1で降した日本は、前年チャンピオン・米国と対戦。メンバーは米国が5試合に4人を準備するも、日本は熊谷一弥と清水善造の僅か2名。それでも、清水は世界No.1のチルデンを相手に、ここでも接戦を演じた。清水は第1・第2セットを7―5、6―4でリードするも、第3セットは7-5でチルデンが取る。第4セット、清水の脚に痙攣(けいれん)が起き、マッサージするも戻らず惜しくも敗れた。しかしながら、これらの活躍により清水は世界ランク4位に位置付けられた。

教科書に載った清水善造

清水のウィンブルドンやデビス杯での活躍は、早々とニュースとなって日本国内へもたらされ、巷でも大いに話題に上がった。やがて1933(昭和8)年、国語教科書『新制女子国語読本』に「スポーツマンの精神」とのタイトルで教材化された。翌年以降『修身』の教科書にも登場、戦前では計5冊の教科書に清水のフェアプレーが記載された。その背景には国威発揚、ナショナリズムの鼓舞など,国策を支える意図が明らかだった。作者は当時、兵庫県の体育主事・矢島鍾二(群馬県出身)。戦後も1948(昭和23)年の小学校5年生『国語』「やわらかなボール」を始めとして,1960(昭和35)年まで計4冊の教科書に載せられた。それは未曾有の敗戦を機に「Give me chocolate!」と米兵に群がる子供たち。その姿に日本人としてのプライドを、再認識させたいとの思いがあった。また1956(昭和31)年、兵庫県の高校入試に「W.チルデンが倒れた時、打ちやすいボールを返したのは次のだれか」との出題もあった。

芦屋で後輩を指導、育成

清水は1927(昭和2)年のデビス杯を最後に、36歳で現役を引退。会社は三井物産から三井生命に移り、大阪支店長や神戸支店長を務める傍ら甲南テニス倶楽部に所属、伊藤英吉(デビス杯・ウィンブルドン選手,後伊藤忠商事会長)宅のテニスコートへも足を運んだ。
既にプロとなったチルデンが1936(昭和11)年、世界巡業の傍ら日本に立ち寄った。忙しい合間を縫って15年振りに清水と会い、二人は甲南高校(旧制)のコートで心行くまでテニスを楽しんだ。戦後そのチルデンは、不遇な晩年を送り1953(昭和28)年に死去。一方、清水は1954(昭和29)年、デビス杯監督に就任。加茂公成(早大,全米W優勝)、宮城淳(早大,全米W優勝)らを率いてメキシコ遠征するも惜敗(2-3)。その帰路、清水は米国に立ち寄りチルデンへの墓参を果した。
戦後1948(昭和23)年、兵庫県テニス協会が発足、清水は初代の会長を務める。後輩たちには「3コン:Concentration精神集中、Control制球、Confidence自信」を説いて指導し、柴田善久(神戸高・関学大)、石黒修(甲南・慶應)、藤井道雄(甲南・甲南)、渡辺康二(甲南・甲南)、小浦猛志(鳴尾・関学)等デビス杯選手が育った。
1956(昭和31)年の兵庫国体が決まると清水は、平野齋一郎(六麓荘)や木村権右衛門(山手町)らとともにテニス会場の芦屋誘致に奔走。並行して芦屋国際ローンテニスクラブ創設(1955)にも尽力し、清水は副会長に就く。翌年9月、10面のコート等が完成。10月末の国体では、一般男子の松岡功(甲南大,東宝社長)、高校男子は平野一斉(甲南)、半那毅男(芦屋)等の活躍で優勝、「テニス兵庫」の名をほしいままにした。
芦屋国際ローンテニスクラブでは、これを機に男子65歳以上・女子60歳以上の「グランドベテラン大会」を開催、清水は共に活躍した熊谷一弥を誘って出場。二人は決勝戦で顔を会わせ接戦を演じたが、清水が棄権し熊谷の優勝が決まった。この試合を観戦した川廷栄一(芦屋高・同志社大,日本協会副会長)は、「清水さんが熊谷さんを立てて勝を譲ったのでは…」と。この大会は、2020(?2)年で60回を迎える伝統と歴史ある大会に発展した。また、第1回大会後の懇親会でジュニア育成が話題になり、熊谷と清水は、頭文字を印したカップ「KSジュニア杯」を寄贈。第1回大会(1957)以来、有望なジュニアが全国から集まった。伊達公子は、ここで優勝し,やがて世界4位にランクされるほどにもなった。
清水は自宅の庭にボードを設け、高齢になっても壁打ちを日課とした。そんな清水を脳溢血が襲う、時に73歳。懸命にリハビリに取り組み、散歩ができるまでに回復したが、1977(昭和52)年4月12日、86歳で神に召され,芦屋山手の霊園に眠っている。「われ信ず 信仰なき我を助け給へ」と墓碑が印す。

(文責:NPO神戸居留地研究会理事・髙木應光)

 

清水 善造(しみず・ぜんぞう)『教科書にも載った「やわらかなボール」(PDF:404KB)(別ウィンドウが開きます)

 

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