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更新日:2021年6月24日

猿丸吉左衛門(さるまるきちざえもん)

日本スポーツ界に輝いた”巨星”

経歴

猿丸元芦屋市長・学生横綱・陸上投てき王
1903年(明治36年)/兵庫県芦屋生まれ
芦屋に縁のスポーツマンの代表格に猿丸吉左衛門がいる。日本のスポーツ黎明期に万能で鳴らし、陸上競技においては砲丸投げ、ハンマー投げに日本記録をつくり、相撲では学生横綱となったほか、ラグビー、柔道などでも活躍した。戦後は地元の芦屋市長、兵庫県議会議員としての政治家、また実業家としても手腕を振るった。

豪放磊落の人柄

豪放磊落、猿丸吉左衛門はまさにそうだった。豪放磊落とは、国語辞典によると「度量が大きくて、細かいことにこだわらないこと」とある。猿丸の人柄はまさにそれ。180センチメートル、120キログラムの堂々とした体格に、風格も備わっていた。1903(明治36)年に芦屋市の旧家で生まれた猿丸家のルーツを探ると「奥山に紅葉ふみわけなく鹿の声聞くときぞ秋はかなしき」と詠んだ猿丸大夫とされる。猿丸大夫は万人に知られる百人一首は三十六歌仙の一人である。ここに登場する猿丸は<吉雄>と名付けられたのだが、世襲により<吉左衛門>を引き継いだ。学生時代に陸上の砲丸投げとハンマー投げで日本記録をつくり、歴代樹立者として記載されているのは、猿丸吉雄である。

相撲は学生横綱、陸上では投てき王

「スポーツマンは、スポーツを通じてのスピリットを忘れるな。そのたくましいスピリットは、スポーツによって確立してほしい。」口ぐせだった猿丸は、根っからのスポーツマンであった。同志社大学で学んだ猿丸は、学業の傍らスポーツにも打ち込んだ。もともと相撲、柔道の格闘技が専門だった。そのうち持ち前のパワーを見込まれ、ラグビーの仲間入りをしたり、「でっかい体で、力があるだろう。投てきをやってみないか」と陸上に引きずり込まれたりで、余技のスポーツでも鳴らした。まだある、ボクシングもそうだ。
これらのスポーツの専門や余技の区別なく、すべてに万能花形として名を高めている。相撲では1922(大正11)年の全国学生大会で優勝し、初代横綱に輝いた。柔道では20歳で四段を取得、その当時「最も若い四段」と言われた。陸上と取り組むようになると、砲丸投げの突き出しの要領を相撲に取り入れ「一人ひと突きで大暴れした」そうだ。「そのころの相撲は四つ相撲だった」。セオリーにない新しい型の“突き”を導入した時には、随分と注目された」とも。柔道では、はね腰を得意技とし、ボクシングでは打ち合いに強かった。ラガーとしては体格を生かしたフォワードで「向こう意気の強さ」を発揮した。格闘技の専門とか掛け離れた余技としてはじめたスポーツのうち、名前を刻む活躍をしたのが陸上だ。陸上への誘いを受けた時「なに?投槌(てっついの砲丸)」投げか。角力(すもう)や柔道の激しい練習に比べりゃあ、楽なもんやろ」と軽い気持ちで引き受けた。猿丸は1921(大正10)年に始まった陸上の関西学生対校選手権大会に登場、砲丸投げ9メートル44、ハンマー投げ24メートル5の2種目で初代王者となった。次年はハンマー投げで31メートル0の日本新をマークしてV2。だが、砲丸投げは10メートル01と記録を伸ばしたが、惜しくも2位。1923(大正12)年の第3回大会は砲丸投げで11メートル17の大会新で2年ぶりに王座を。余談だが、第1回大会が行われた鳴尾運動場(西宮市)は、1916(大正5)年に鳴尾競馬場内に新設され、トラック1周800メートル(通常400メートル)、直線400メートル(同100メートル)という代物で東洋(アジア)いちと称した。

“猿丸流”の創意工夫

猿丸が「投てき王」として存在感を示したのは、関西学生の大会に限らず、1922(大正11)年の第10回日本選手権大会に10メートル48で優勝したり、翌23年には11メートル44の日本記録を更新する11メートル57の日本新を出す活躍をした体。ハンマー投げでは1922年から1926(大正15)年にかけて、5回日本記録を打ち立てた。先述の関西学生での31メートル0をはじめとし、34メートル41から34メートル705から36メートル78の後、1926年5月30日に行なった第2回京大対同志社大(京大にて)で、40メートル87の空中アーチをかけ、日本人の40メートル台スローワーとなった。猿丸の現役時代は、日本陸上界にとって創世記であり、記録だけでなく技術的にも現代とは比較にならない。猿丸として「私らのころはハンマー投げを例にとると、ただ力まかせにワン・ターンで投げていただけ。今のような4回転なんて、夢のまた夢のような話」の後、「そうかと言って科学的を無視した訳ではないけど、ただひたすら、がむしゃらに練習した時代だった」と続けた。こう話す猿丸だが、むやみやたらに練習するだけでは、日本記録などをつくられるはずがない。猿丸流ともいえる創意工夫を凝らしたことで、結果につながったのだ。先述した相撲での“突き”を編み出したように、ハンマー投げで飛距離を出すには「ターンを1回より2回に増やして、よりスピードを加えてハンマーを振り切った方が遠心力が増す」とワンターンをツーターンへの切り替えの工夫をしている。猿丸独自の手法に呼吸法も加わる。相撲、柔道やボクシングなどの格闘技で言われる「呼吸の間」を陸上の投てきにも用いた。「息を吐く、吸うの“呼吸の間”をうまく捕えることがカギ」と。投てきの補強運動の一環として、速力・脚力を付けるためスタートダッシュとか跳躍練習を取り入れた。が、ある日、走り高跳びの練習中に不運にも脚を故障してしまった。まさに不運。この故障が1924(大正13)年の第8回五輪パリ大会の投てき代表の内定をフイにしたのだ。

破天荒な渡欧&画期的イベント

自らの練習で故障し、五輪代表の座を棒に振った猿丸だが「それなら五輪見学を」と、大学には休学届けを出し、ある新聞社と掛け合い、強引に特派員の肩書の許可をもらい、渡航した。猿丸ならではの真骨頂を発揮しての洋行だ。五輪観戦だけではない。フランスでは陸軍士官学校で柔道の模範演技を。英国ロンドンでは何とボクシングの指導まで。帰国に際しての長い船旅では後日談が。カナダのハリハックス港に停泊中に、タグボートの船体名に「東郷丸」の文字を目に留めた。日露戦争の日本海海戦で世界に名を馳せた海軍の名将・東郷平八郎のネームだ。晩年、猿丸は「まだ、タグボートが保存されているなら、買い取りたい」と聞き取りを試みたが、これは夢に終わった。猿丸はスパイクを脱いだ後、兵庫陸上競技協会の副会長を1936(昭和11)年から1945(昭和20)年まで。会長職を1946(昭和21)年から1951(昭和26)年までの要職を務めた。戦後は白紙状態にあった組織の再建に労力を惜しまなかった。話を戦前に戻してみる。1936(昭和11)年にベルリン五輪の長距離で大活躍し“世界のヒーロー”となった村社講平(当時の中央大学から川崎重工入社)を神戸に招き、同年11月28日に神戸市民運動場(神戸の西代)で「村社講平選手に5000メートルを挑む会」のイベントを開いた。猿丸の意図は「兵庫、近畿地区の長距離界に刺激と新風を」にあった。村社の力走を「ひと目見たい」と、集まった観客は35,000人。アマチュアのスポーツにおける有料プログラムは例がなかった時代、1部10銭で販売したところ、7,000部がアッという間に売り切れた。村社人気に加え、猿丸が見せた「商売上手」の一例だ。一方、レースでは珍事が。村社の圧勝は当然としても、ゴールタイムは15分11秒4と平凡なもの。ベルリンで14分30秒0の日本記録で4位入賞した記録より、41秒4も劣ったのだ。「村社のレースに見とれた決勝審判員が、ストップウォッチを止め忘れたのが真相らしい」とは後年の猿丸談。

生涯スポーツに目を向けた晩年

戦後、1948(昭和23)年に芦屋市長となり、市制の舵取りを司る傍ら“スポーツマン市長”として知られた。市長に立候補した時のユニークな立ち会い演説会は割愛するが、なぜ行政マン、それでも首長なのか。猿丸の胸の内は「芦屋100年の大計を立て、国際文化住宅都市を目指した」で、「国から指定してもらえたことが自慢や」。市長は1期でやめている。晩年はだれにでも手軽にできる「みんなの健康づくり」に力を注いだ。数多い「生涯スポーツ」の中で、猿丸が勧めたのはローンボウルズだ。同スポーツは1962(昭和37)年に日本へ。2年後の東京五輪の年に豪州・水泳陣のコーチが六甲山で始めたのを猿丸が見習い「(ローンボウルズは)高齢者でも無理なくできる」と判断し、広く一般に推進、指導に当たった。1976(昭和51)年2月に南アフリカ共和国のヨハネスブルクで開催された第3回世界ローンボウルズ選手権大会に、初参加の日本チーム団長兼選手(当時、日本協会会長)として飛び立ったこともある。72歳だった。ほかに兵庫陸上競歩協会会長、芦屋市体育協会会長なども務めた。「スポーツマンの最高理念は、真心を尽くすこと」。「競技者は勝つために努力しろ」。「勝者は常に美しい」の格言を残している。
(文責:元神戸新聞社運動部長力武敏昌)
猿丸吉左衛門(さるまるきちざえもん)日本スポーツ界に輝いた”巨星”(PDF:290KB)(別ウィンドウが開きます)

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