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更新日:2021年6月24日

高石勝男(たかいしかつお)

”水泳日本”生みの親

経歴

高石芦屋水練学校創設者

1906年(明治39)大阪府出身。早稲田大学卒業。

近代水泳発祥地の茨木中学校(現大阪府立茨木高校)から3回のオリンピックに出場し、日本のスポーツ界に大きな貢献を成した。1964年(昭和39)の第18回夏季オリンピック東京大会では水泳日本代表総監督を務めた。芦屋市・芦屋市教育委員会等の協力を得て芦屋水練学校を創立。日本水泳連盟会長、日本体育協会理事等を歴任し、紫綬褒章、叙正五位授勲三等瑞宝章を受章。1966年(昭和41)4月、59歳で芦屋の海とプールに面した芦屋霊園に眠る。

近代水泳発祥の地からオリンピック出場

1924(大正13)年、パリの第8回オリンピックに初出場の髙石勝男はいきなり、100メートルと1500メートルの自由形2種目に5位で入賞した。これは、当時の日本水泳界にとって青天の霹靂だった。しかも、日本の水泳選手として初の入賞である。次のアムステルダム大会では800メートル自由形リレーでワイズミューラーなど世界の強豪選手と戦って銀、100メートル自由形では銅メダルを獲得する。さらに4年後のロサンゼルス大会には主将として出場し、競泳で6種目のうち5種目に金メダルをもたらす陰の力となった。日本はついに水泳王国の欧米を抜き、待望の総合優勝を成し遂げる。その発展のきっかけをつくった髙石はさしずめ「水泳日本」生みの親といえよう。こうした高石の歴史は永く水泳への情熱を持ち続け、試行錯誤を重ねながらだった。髙石が入江稔夫と入谷唯一朗等(オリンピックではともに活躍)と通った茨木中学校(現大阪府立茨木高校)では、1916(大正5)年に生徒たちの手作業で簡易プールが造られた。当初は校庭の片隅に小さな池のようなものが造られ、水泳池と呼ばれていた。プールとは名ばかりで周囲を松杭と板で囲み、近くの茨木川の清流を引き込んだだけの水溜めであった。それが年々改良を加えられ、最後は頑丈なコンクリート造りとなり、
長さが50メートルの正式なプールに完成したのである。作業には、後に評論家として活躍する大宅壮一(1900年から1970年)と、ノーベル賞作家の川端康成(1899年から1972年)もいた。大宅1年、川端4年生である。作業に積極的だったのは大宅だ。川端はきゃしゃな体にモッコをかつぎ、裸足で懸命に土を運んでいた。そのころの川端の関心は文学に大きく傾き、1918(大正7)年1月20日の日記には「おれは今でもノーベル賞を思わぬでもない」と書いている。プールづくりの「体操」は欠席が多かった。1923(大正12)年の極東選手権大会では、このプールが、日本代表選手団の練習プールとなった。中国、フィリピン等の参加選手も練習するなど、名実ともに日本水泳の中心的存在であり、日本のスポーツ界にも大きな貢献を成した。日本で初めて学校にプールが造られたことは、日本水泳史の中でも特筆すべき出来事だった。茨木中学校のプールは日本の近代水泳発祥の地(茨木高校に「水泳発祥」記念碑がある)として髙石を筆頭とする国際的な水泳選手を多数輩出し、水泳王国といわれた礎を築いたのである。

芦屋水練学校の存続に奔走

芦屋水練学校が誕生したのは、戦後間もない1949(昭和24)年だった。「子供たちに夏休みを有意義に過ごして欲しい」との願いから、髙石が当時、芦屋市長をしていたスポーツ界の大先輩である猿丸吉左衛門氏(芦屋ゆかりのスポーツ人物像1)で紹介)に相談したところ、同年7月に芦屋市の主催事業として開校した。水練学校は砂浜を求めて東奔西走、台風の襲来、海岸汚染、学校プールへの逃避など転々と場所を変える日々が続いた。わが国で初めてクロール泳法を開拓した髙石は、水練学校では初心者の指導に専念した。毎年百人を超す泳ぎが苦手な生徒と取り組み、これが最良と考え出した方法が犬かき泳ぎを変形した髙石流だった。この泳ぎの良い点は次の平泳ぎやクロールが簡単にできることだった。25メートルを髙石流で泳いだ者は次の段階に進むのだが、1週間余りの講習で進級組のほとんどが50メートル、100メートル以上泳いでいる。後に、髙石流の水泳指導はNHKで放送されている。パイオニア精神溢れる水練学校では他の都市には見られない特色がある。指導教師の他に”学生先生”と呼ばれる大学生以下の現役の生徒等によって、運営されていることだった。青少年の健全育成が叫ばれる中で、髙石は持論である若年層の水泳人口の増加について、事あるごとに周囲に説いて回った。創立から17年、1966(昭和41)年4月13日、水練学校はあまりにも辛い試練に直面していた。最大の功労者である髙石の思いもかけぬ病死だった。地域で発展してきた水練学校は、さらなる飛躍を目指している時だった。初心者のみならず競泳など具体的な成果が着実に出始めていただけに、「戦う魂を持っていた」かけがえのない指導者を失ったことは痛恨の極みであった。選手として栄光を築き、引退した後も八面六臂の活躍をしていた髙石の早すぎる死に、落胆と惜しむ声が相次いだ。ただの葬儀の式にしたくない。水の王者の冥福にふさわしいものにしたいとの関係者の思いから、4月19日に大阪扇町プールにおいて、全国各地から各界名士3,000余名の参列を得て、日本水泳連盟葬が挙行された。黙とうで式は始まり、石井光次郎財団法人日本体育協会会長(代理)、左藤義詮大阪府知事、中馬馨大阪市長、奥野水連会長はじめ各界の弔辞、そして最後に、水練学校の生徒代表が立った。参列者にはオリンピック2連勝の鶴田義行、金メダリストの宮崎康二や兵藤(旧姓前畑)秀子等、また、女子100メートル自由形3連覇を達成したドーン・フレーザーも来日中の時間をさいて出席し、水泳史を物語るそうそうたる顔ぶれだ。厳かな中に静けさを破って、天理高校ブラスバンドがロサンゼルス大会の応援歌を演奏すると、自由形の山中毅選手等が先輩の旅立ちにおくる献泳のしぶきをあげた。明るい性格で親しまれた髙石の葬儀らしい、会葬の列は絶えることがなかった。
髙石の死からわずか2ヶ月半後の7月1日、後進の育成に死力を尽くした水の王者にこたえるかのように、芦屋市民プール(朝日ケ丘町)が完成した。これまで海辺で行っていた初心者たちの指導を待望の市民プールでできるようになったのだ。芦屋水練学校の拠点がついに設けられたのである。

泳法の改善が急務と”泳ぎのルネッサンス”を説く

髙石の歩んだ道はそのまま近代日本水泳の歩みであった。黎明期の日本水泳界を一躍世界水準に押し上げ、なおかつオリンピック入賞を実現させたスポーツ選手として、昭和初期の人気の的となった。1961(昭和36)年、東京オリンピック開催決定とともに日本水泳連盟4代目会長となり、さらに選手強化本部長として大阪の職をなげうって英才教育に全力を傾けた。国をあげての協力体制とはいえ、相当の成果を期待されて選手の発掘に駆けまわった。髙石が会長を引受けた当時の日本水泳界は、すでに世界水準と相当のひらきがあった。輝かしいオリンピック記録がわずか4年後の次の大会には見る影もない低価値になり下がるほど、この4年間の進歩が急務なのである。前回の優勝記録では入賞はおろか予選通過さえ困難なのが実態だった。1964(昭和39)年5月、東京オリンピックの年のスポーツ談義欄に、髙石は力の限界と題して水泳日本の躍進のための稿を寄せている。「人間の力は、限界に達したかに見える時に突如として天才が現れ、とてつもない力を発揮して、また新しい記録が生まれていく。こうした背景には、第一の成果としてスポーツ科学の進歩がある。」と限りない可能性を追求している。今日まで、水泳の練習といえば、ひたすら泳ぎぬくことが、選手に課せられた練習法だった。選手の指導にあたるコーチは、そのスポーツに精通した人だったが、指導はあくまでも体験から編み出した技術と勘の域にとどまっているのが実情だった。しかし、今や泳ぐ時の水の抵抗は個々の身体の大きさによって差があり、この抵抗度を的確に測定できるようになったのだ。選手が世界記録に達するためには、手足の力の強弱がどの程度必要かも算出することが可能なのだ。陸の上で様々な器具を使いながら筋力強化を図る方法等は、むしろ水中の練習よりも有効だと立証されている。しかし、これらは、スポーツ科学が水泳の練習に応用されているほんの一例にすぎない。適切な指導を行なうためには、科学的に十分な裏づけをもつ練習計画を立てることが必要になってきたのである。「今後、スポーツ科学の研究が一段と進むにつれて、人間の力の限界はさらに前進するだろう」と髙石は水泳日本の再生にエールを送っている。1966(昭和41)年4月、59歳で芦屋の海とプールに面した芦屋霊園に眠る。

(文責:慶應義塾大学SFC研究所上席所員菅沼久美子)

高石勝男(たかいしかつお)水泳日本生みの親(PDF:357KB)(別ウィンドウが開きます)

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