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更新日:2018年7月9日

祖母井 秀隆(うばがい ひでたか)

日本人初の欧州クラブGMにしてフランスからオシムの命を救った人

経歴

祖母井

元ジェフユナイテッド市原・千葉の育成部長・ジェネラルマネジャー(GM)、
元「グルノーブル・フット38」GM、元Jリーグ京都サンガGM

兵庫県神戸で生まれ、幼少のころから芦屋市打出で育つ。宮川小学校,精道中学校,報徳学園高校、大阪体育大学を経て,1975年(昭和50)に読売サッカークラブに入団,半年で退団し、西ドイツに渡り,ドイツ4部リーグ「BTSノイシュタント」でプレー。その後、ケルン体育大学でコーチングを学ぶ。1984(昭和59)年に帰国し、母校の大阪体育大学サッカー部2軍チーム「北摂蹴鞠団」でコーチを担当する。1995年(平成7)からジェフユナイテッド市原・千葉の育成部長、ジェネラルマネジャー(GM)を務め,その時にドイツ留学時代に培った幅広い人脈を活かし、イビツァ・オシム氏(その後、日本代表監督)を指導者に招聘。2007年(平成19)からフランス2部リーグ「グルノーブル・フット38」GMに就任し、すぐ1部昇格させる。2010年(平成22)にJリーグ京都サンガGMに就任し2014年(平成26)シーズン終了後に退任。ドイツ人の妻の間に3児。

 

規格外が楽しい!

1951年(昭和26)、復興間もない兵庫県の芦屋で理髪店を営む一家の4人兄弟の長男として生まれた祖母井は、長嶋茂雄に憧れるごく普通の野球少年だった。しかし,いつのころからか、周囲に認められない自分を意識するようになり、祖母井はどこにいても居心地の悪さを感じるようになっていた。店が休みになる月曜日は、学校に行かず阪神電車に乗り、絵を描いていた。映画好きの父親はよく三宮にある映画館へ洋画を観に連れて行ってくれた。
チャンバラの時代に洋画を好んで見る人は少なかった。映画は祖母井が異文化と接したはじめての経験となったが、なかなか認めてもらえない現実から逃れて、無意識のうちに外国へと導くきっかけとなった。時あたかも´64年(昭和39)の東京五輪の真っ只中、祖母井はサッカーの試合を見て感想文を書くという課題に取り組んでいた。授業で初めてサッカーボールを蹴った。それまで、サッカーとはまったく無縁で、部活動はバスケットボール、柔道、卓球とどれも長続きせずに転々とし、周囲からは呆れられていた。祖母井としてはそのころ大人気だった少年漫画『ハリスの旋風』の主人公のように,いろいろなスポーツで活躍する姿を夢見ていたのだが、現実はますます評判を落とすだけだった。小学校6年間の通信簿は「体育」が1。そんな祖母井がようやく中学3年生になってから,俄然サッカーに興味を持つようになった。高校進学を目前にして,サッカーへ大きく人生のハンドルを切ったのだった。そして、目指したのはサッカーで名門校の報徳学園高校だった。ほとんどのサッカー部員はすでに入学前から、高レベルの本格的なトレーニングをしてきた猛者ばかりだ。そんな世界にのんびり高校から始めるという祖母井が参加したのだから、それは規格外どころか、問題外だった。世間知らずのダメ学生は、再び行き場を失ってしまった。思いついたら前後の見境なく突っ走る、規格外の行動力はドロ沼にはまり込んだままだった。報徳学園高校を卒業した祖母井は、大学受験に失敗し、健康飲料の配達をしながら浪人することにした。しかし、すぐに早朝の配達に嫌気がさして挫折。そんな時、地域リーグの草サッカーチームでボールを追っているうちに,なんと社会人選抜として国体にまで出場することになった。「もう一度、サッカーと向き合ってみよう」そう考えた祖母井は体育大学へ進み教師になることを目指した。新たなチャレンジの出発だった。

目標があれば道は開ける!

運良く´71年(昭和46)大阪体育大学に入学した祖母井は、サッカー部に籍を置いた。このまま無事に卒業さえすれば、希望した教師の道は約束された。ところが、大学で改めてスポーツとしてサッカーを勉強するうちに,これまでの選手としての視点とはまったく別の興味が湧いてきた。スポーツ競技として,文化としてのサッカー、特に外国サッカーへの関心が強まるばかりだった。海外へ行きたい!子どものころから憧れた外国への漠然とした夢は,サッカーという現実的な動機を得て,いよいよ祖母井の目的となっていった。通学のかたわら,夜は専門学校でドイツ語を学び,すでにドイツが照準に入っていた。´75年(昭和51)10月、まったく予想外のところから、ドイツサッカー留学ツアーに同行の話が舞い込んできた。中学生レベルの通訳でも大きな問題にもならず、ツアー一行を日本へ送り返していた。そこから,一人残った祖母井はブレーメンに移り住んだ。観光ビザの切れた外国人不法就労者として,貨物船の船倉に大きな鉄板や鉄柱を組み上げる日雇い仕事にありついた。ツアー一行を見送ってから3年後の´78年(昭和53)の夏,入学していたブレーメン大学でボロボロに傷ついた自信や自分のアイデンティティを取り戻すため一時帰国。しかし2ヶ月後には、再びドイツへ向かっていた。改めてケルン体育大学へ入学後、1年半ほどしてBCエッフェレンで中学生以下の子どもたちに指導を始めた。ここでの落ちこぼれチームとの体験は,祖母井の人生の一つの転機となった。特に明らかだったのは,育成の方法論だった。ヨーロッパでは子どもの視点から教育、育成が浸透していて、大人や教師中心の日本の教育スタイルとは根本が違っていたのだ。こうして祖母井は10年間学んだヨーロッパのサッカーを土産に帰国することになった。


イビツァ・オシム氏との出会い!

帰国後、大阪体育大学のサッカー部コーチとして、祖母井は久しぶりに母校のグラウンドに立った。そこで眼にしたものはドイツでは考えられない,思わず目を背けずにはいられない光景だった。ドイツでは,サッカーの前に人権やデモクラシーが強く意識され、どんな立場の人間でもそれを侵すことはできない。どうみても日本式の過酷なトレーニングは人権以前の愚挙に思われた。指導と称して、子供を殴る場面など考えられない現実と直面したのだった。
帰国してそろそろ10年になろうとしていた´94年(平成6)ジェフユナイテッド市原・千葉から育成部長(のちにGM)として誘いが届いた。ユース世代の“育成”の二文字に強い魅力を感じた。そして、2年後,祖母井がオーストリアのグラーツへ1ヶ月間電話を入れ続け,「もう明日,会いに行きますからっ!」と,監督に向かい入れた,イビツァ・オシム氏との出会いがあった。今まで経験したことのない練習に最初は戸惑っていた選手たちは勝利という代償を受けるにつれ、オシムの得体の知れない底力を思い知るようになっていった。オシムが作りたかったチームは、祖母井が今までやろうとしてなかなか一人ではできなかったことだった。初めて自分を理解してくれる人ができた喜びを祖母井は心の底から感じていた。
ところが、3年半後の´06年(平成18)7月21日、日本サッカー協会はジーコの後任監督として、イビツァ・オシムの就任を発表した。祖母井のジェフでの12年間はある意味,古い体質との葛藤だった。祖母井が学んできたヨーロッパのサッカーは、旧来の日本のやり方とは何もかも違っていたからだ。ドイツで10年、大体大で10年、そしてジェフで12年。勝利を追求する組織の中で、人と人をつなぐ、人間的な営みを思い起こさせる存在がいかに必要なものであるか、ということをオシムから学んだ。


フランスからオシムの命を救った人・・・祖母井秀隆

´07年(平成19)の11月15日、夕方6時を過ぎた頃だった。フランス2部リーグ「グルノーブルフット・38」のGMとして取り組んでいた祖母井の携帯電話が突然けたまましく鳴り響いた。「ヒデ、救急車を呼んでくれ!親父が倒れたんだ!」取り乱したオシムの息子・アマルからの国際電話だった。どうしてフランスにいる祖母井にこんな緊急の電話がかかってきたのか、すぐには理解できなかった。「なぜ、早く呼ばないんだ?」「夜中だから誰も電話に出てくれないんだ。僕は日本の救急車の呼び方がわからないし・・・」ようやく状況が理解できた。日本は夜中の午前2時、アマルと共通の言語で話ができる日本人は、フランスにいる祖母井ただ一人だった。
オシムが倒れたこと、119番にまだ通報していないことも。「わかった,すぐ手配するから、ちょっと待っていてくれ」祈るような思いで眠りについている友人の番号を押し続けた。「オシムが倒れた。救急車を手配して!あと、アマルが錯乱状態だから、そっちのケアもお願い、よろしく頼んだよ!」結局、オシムが浦安の順天堂浦安病院のICUに運び込まれたのは、夫人が異変に気づいてから90分以上が過ぎた頃だった。急性脳梗塞だった。予断を許さない,深刻な状況が続いていた。祖母井はなぜ,フランスに電話がかかってきたのか?もう少し早く救急車を呼べたのではなかったか?倒れる前に未然に防ぐことはできなかったのか?どうしようもないほどの苛立ちが腹の底からこみ上げていた。祖母井がジェフにいた時は、いつでも連絡が取れた。自分が日本にいれば・・・。この悔しく、やるせない思いはしばらく祖母井を苦しめた。しかし、幸いだったのは、意識も戻り,家族とコミュニケーションをとれるまでになったオシムの回復が家族に笑顔を取り戻させていたことだった。この笑顔のおかげで祖母井は、ようやくあのやるせない思いから解放されたのだった。現在,祖母井は大学やサッカークラブに所属しながら,スポーツを通じて世界で活躍する人材を育てる活動を行っている。(文責:慶應義塾大学SFC研究所上席所員菅沼久美子)

 

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